2009/08/31

走って走って走って・・・「感動」を生んでいますか?


関心ないので観ていませんが・・・今年も日本テレビの「24時間テレビ」で、”珍獣ハンター”ことイモトが「走って」いました。
選挙速報の裏で、結構な視聴率を稼いでいたらしいです。
また、このあいだやっていた織田裕二がキャスターを努める世界陸上と同時進行で、織田裕二のモノマネで知られる山本高広が、240時間も「走って」いました。
間寛平は、日本テレビ、電通、トヨタなどの出資による「アースマラソン」で、地球規模で「走って」います。

これらの「走って」いる番組に共通している大きな要素が「感動」と「涙」なのですが・・・「辛そう!苦しそう!頑張れ!」「走り続ける姿に感動!」「仲間や家族支えられてゴールだ〜!さぁ、泣け!」という流れを無理矢理のお膳立てされた「感動」にしか思えません。
走っているランナーのモチベーションが、イマイチはっきりとしない状況で、涙ぐむような「努力」を見せられて、最後まで頑張って走っているランナーに対して思うことは「なんで、走っているの?」でしかないと思うのですが、そのような番組出演者たちは誰もがランナーのゴールを「感動」と「涙」で迎えるというのが、鉄板の演出となっています。
それにしても、ZARDの「負けないで」は、マラソンのエンディングに、とっても似合います。

マラソンというのは王道のひとつとして定着しているようですが、最近の日本のテレビは「感動」と「涙」を売りにしている番組が増えたように思います。
ちょっと前までは「誰も知らない泣ける歌」とかいう番組をやっていたけど・・・「泣ける歌」と言われて「泣こう!」っていう視聴者が結構存在していたっていうことのようです。
「エチカの鏡」などの実録再現モノは、勿体ぶって「感動」を伝えようとしていますが、タモリの態度が不自然です。ドラマの「ルーキーズ」などは、キャスト同士の撮影秘話的な感動物語の宣伝がうざったい上に、予告編でこれでもかと泣くシーン繰り返すので本編を観る気が失せてしまいます。
今度「ナキメシ」とかいう番組が始まるようで、芸能人が「泣ける」懐かしい飯を食うのを見せるらしいです。「感動」と「涙」を前提にした番組にチャンネルを合わせる人は、紋切り型の「感動」に涙腺を委ねて、とりあえずはストレス発散として「泣く」のでありましょう。

現実逃避するための上っ面な「感動」と「涙」だからこそ、そこに”リアリティ/現実”という要素が必然になってくるのかもしれません。
マラソン完走、本当にあった感動する話、ドラマの裏側の友情など、製作者に演出されているにしても”リアリティ/現実”がベースにあるということが「感動」を生むための重要なスイッチになっているようです。
テレビのお膳立てした”リアリティ/現実”に「涙」するというのは・・・「お涙頂戴」の「涙」に似ていると思ったりします。

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2009/08/30

流行のリサイクル=編集という蟻地獄


流行のサイクルのスピードが、ますます上っているのは周知のことであります。
「流行」を、雑誌、テレビ、インターネットと、より広く、より早く伝えられるメディアで取り扱うことで、流行自体の鮮度が保たれる期間というのも短くなっています。
これだけ目まぐるしく次々と新しい流行を「生む」ことは不可能なことですから、「今は、この時代の気分!」ということで、過去に存在した流行をリサイクルすることが常套手段となっています。
すでに現存サンプルが存在しているようなものなわけですから効率は大変良いわけですが、如何せん拝借してきている発想なので、時代に根付いてるわけでもなく、飽きられるのも早く、次から次に消費されていくのです。

流行の「リサイクル」というのは、実のところ20世紀のファッションでは何度も行われていることです。
第2次世界大戦後の1950年代のディオールの「ニュールック」は彼が子供の頃憧れた19世紀の世紀末のビクトリアンドレスのリサイクルでした。
1960年代のシャネルスーツは本人による1930年代のリサイクルで、1970年代のスーツスタイルは40年代のリサイクルで、1980年代初期には50年代がリサイクルされていました。
確かにファッションは「リサイクル」によって、時に流行を生み出していることには違いはないのですが、ある程度の時間をかけながら「過去の流行」は「時代の社会背景」と融合されて、新しい時代のアイデンティティーとして認知されていったものでした。
1990年以降は、過去流行したアイテムを再生しながら、時代を代表する流行はすでに存在しなくなっています。それは流行の細分化ということもありますが、流行自体のパワーを殺してしまったメディアの発達があるのかもしれません。

ここのところ数シーズンは1980年代が”新しい”(???)ということになっています。
それはファッションだけでなく、音楽、カルチャー、広告、グラフィックなどに広がっています・・・カエラのPV、IMALUプロデュースの洋服、ユニクロ起用のモデル。
それらは、単に1980年代の上っ面を「引用」しているような印象しかありません。
過去のアイデンティティーを持ったスタイルを今「ピックアップ」したセンスが「おしゃれ!」という感性が蔓延し過ぎです。単なるセレクトの作業になったため、今の流行を指南するのが、ショップ店員だったり、雑誌の読者モデルやタレントだっだり、またはアメブロのキャバ嬢のブロガーになってしまいました。
さらに、薄っぺらい流行をサポートするメディアによって、今や「時代」と「流行」の関係性はなくなりつつあります。
これからバブルを迎えようとしていた1980年代と今の経済状況を比較しても、時代性がリンクするものはありません。
表面的な気分だけをコピーしても、虚しい空回りにしか見えないのです。流行を扱っている業界の人間って、実は「頭が悪い」のかもしれないと証明してしまっているようで・・・恥ずかしくなってしまいます。

過去からのリサイクルが、今の「流行の最先端」「今の時代の流れ」というのは、なんとも貧しい感性としか言いようがありません。
本質的な意味での時代を表す流行というものを生み出せなくなっているところが、流行を追い続けるというシステムこそが、これからも底なしで堕ちていく蟻地獄のようです

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2009/08/29

初めての「老眼鏡」ができあがりました



ここ1年ほど・・・文庫本の細かい字や、写真を背景にした雑誌の文字を読むのが億劫になってきていたので、老眼が進んできたなぁ・・・と、気になっていました。
子供の頃は遠視気味で、目の検査では何も問題がないのが当たり前だったので、メガネとはまったく無縁な人生を歩んできました。
ネックレスと指輪とか、とにかく身体に異物を装着することが、大嫌いなこともあって、おしゃれでするサングラス以外はしない主義でした。眼科のお医者さんにも生まれてから行ったことがなかったのですが、先週末、近所のメガネ屋にフラッと立ち寄って、学生時代以来初めて「検眼」をしてみました。

その結果はショックなものでした。ずっと「いい」と思っていた視力が、左右は「0.7」と「0.8」で、両眼でなんとか「0.9」ということでした。
目が悪いというほどではないけど、もしも車を運転するとしたら法律的に裸眼でできるギリギリということだったのです。
さらに、多少「乱視」が入っていたということにはガックリしました。
老眼の進行と多少近視気味ということだけでなく、小さな文字が読めない理由は乱視も原因のひとつだったのです。

そんなわけで・・・メガネ屋さんの思惑どおり(?)に、老眼鏡(リーディンググラス)がすぐにでも欲しいという気持ちになったのです。
老眼鏡って、出来合いの値段の安いものだと思い込んでいたのですが、乱視が入ってくるとレンズはカスタムになるわけで、本気で買い物をする価格になってしまいました。
しかし、一度カスタマイズしてもらったレンズで覗いた世界を経験してしまうと「もうしばらく裸眼で我慢しようか・・・」という気分にはなれないものです。
結局、軽い気持ちで入った近所のメガネ屋で初めての老眼鏡をつくるこになりました。

そして、その老眼鏡が出来上がったので、さっそく受け取ってきたのです。
最近、文字が大きめで読みやすい新書ばっかり読んでいたのですが、今日からはまた文庫本を含めた読書を純粋に楽しめそうです。

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底なしの自己過大評価の果て・・・~「新・資本論」堀江貴文著



ホリエモンのことは、数年前に世間でもてはやされている時代も、決して好きではありませんでした。人間の卑しい欲望を上手具合に刺激して私腹を肥やす不当な行為を正当化するような”品の悪さ”を感じていたのです。それにも関わらず、本屋で平積みになっていた彼の本を手に取って買ってしまったのは、今さら何を彼は語っているのだろうか・・・という疑問があったからかもしれません。

突っ込みどころ満載のこの堀江本「新・資本論」は、本屋のコーナーとしては「ビジネス新書」ということなんだろうけれど、内容的にはホリエモンというキャラクターの書いた「芸人本」といった印象でした。
読み進めていくうちに、ホリエモン独特の論理に大笑いさせられてしまったのです。
彼曰く、困ったときには食事を食べさせてくれたり、部屋に居候させてくれたり、行きたい場所があれば車で送ってくれる人がいるというのは、自分という人間に対しての「信用」があるからであり、その「信用」が経済的な価値を生み、その人脈がさらなる成功へ繋がっていくものだ・・・ってことを力説するんだけど、これこそホリエモンの神髄だと思います。
一般的には、こういう人を「他人を利用する奴」「ただ乗りする奴」ってことで、うざくて敬遠される人物なのに、それを「自分は人から信用があるから」と解釈して、堂々と公言できてしまう傲慢な性格が、まさにホリエモンらしさなのかもしれません。

副題に「僕はお金の正体が分かった」とありますが、これって彼自身が信じ込んでいる「お金の正体」であるだけで、それは彼の行為を正当化するのに都合のいい解釈でした。
彼はライブドア株の常識を逸した分割によって、球団を買収したり、メディア株を買い占めたり、宇宙ビジネスの資金となった膨大な資金を作り出しました。
それは、投資のバブルで楽して儲けたいという人間の卑しい欲望を上手に刺激した詐欺紛いの手法によってです。
しかし、彼はそうやって分割で単価を安くした株によって、人々の投資に関する興味を刺激して、経済を身近な問題としてより多くの人に教えることができたと自負してしまうのです。
地道に住宅ローンを組んで家を購入することが、彼の言う「信用」をまったく築かない無駄なことだと蔑みながら、自らの能力をレバレッジして売り込むことでお金を生むことができるというのは、まさに詐欺師のハッタリといった言い草としか思えませんでした。
ここまで、自身の可能性と能力を過大評価して宣伝すれば、騙されてお金を出してしまう人(信用ではなくて、楽して儲けようという卑しい人)というのは存在するのかもしれません・・・。

ホリエモンは何があっても、きっと彼の人間性を変えることはないでしょう。
どんなに痩せても彼はリバンウドするように・・・そして以前よりさらに太るように、自己評価はますます大きくなっていくのだと思います。
ただ、ホリエモンのような人物が経済というお金に関わる世界(最近は何かと政治の世界にも口は出しているようだけど)で言いたい放題というのは、ある意味救いだと思います。
彼が「精神」や「心」のことを同じ調子で語ることが出来たなら・・・今にも「ハルマゲドン」が起こると説いたなら・・・もしかすると麻原彰晃のようなカルト集団の教祖となっても不思議ではないからです。
ホリエモンの訴えたいことには全然興味はないけど、こういう人物が5年後、10年後にどうなっていくのかは見届けたい・・・と、だけは思うのです。



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2009/08/28

骨までしゃぶられるような関係には・・・


基本的に人は自分の事しか考えていないものかもしれませんが・・・人からは得るだけで自分の得にならなければ何も与えない人がいます。
それは物理的なモノだけではなく、”精神的なサポート”だったり”知識”情報””感性などの形のないモノも含みます。
人の好意の上澄みを奪われるような感覚で、物理的な”モノ”を奪われるより、骨までしゃぶられるような喪失感を感じるものです。

知識情報感性というのはシェアする方が、自分を含めた世の中の思考の流れが良くなるものなのですが・・・「しゃぶり尽くす」側の人というのはガードが固くて、そう簡単には他人のためになるモノをシェアしようとしません。
また、自分の「ニーズ」には非常に敏感なくせに、他人の「ニーズ」には鈍感だったりします。
まさに、人間関係に於てのデッドエンド(行き止まり)を感じさせるなのですが、当の本人には認識はなっかったりします。
そうやって、バランス感が失なわれることで、与えている側には「しゃぶられ感」が生まれてしまうのです。
友達という存在にしゃぶり尽くされるのは、精神的な疲労感を感じさせるます。
そんな一方通行な友情に限って「しゃぶり尽くす」側から、関係の終わりを突きつけられたりします。
状況の変化(新しい友人や恋人の出現、新しい仕事や役職など)によって必要性は薄まるわけであるし、必要な”知識”情報””感性をしゃぶり尽くした人間関係からさらに得るモノはないわけですから「お役目終了」ということなのでしょう。

時間の流れによって意味を失うものでもなく、一時的に穴埋める感情でもなく、本質的な精神性の関係の繋がりを見極めることが大切だと思います。
本当に意味のある人間関係というのは、利用し合うだけの都合のいいものではなく、死という肉体的な別れによっても失われることがない「永遠の存在」なんだと、今思えるのです。

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2009/08/25

海老蔵、睨みまくり!~石川五右衛門/新橋演舞場~



天下の大泥棒を主人公に・・・「金田一少年の事件簿」などの漫画の原作者と29歳の演出家による新作歌舞伎「石川五右衛門」は、新しい”古典歌舞伎”のスタイルを感じさせる一大歌舞伎エンターテイメントでした。
話の筋や辻褄などの細かいことにこだわらないで、とにかく一場面ごとに海老蔵らしい見せ場を楽しむというのが醍醐味のようです。

五右衛門の釜ゆでシーンから静かに始まるものの、まずは時間を遡ります。
伊賀の忍術を百千三太夫に五右衛門は師事します。踊りまくり、立ち回りを見せまくり、睨みまくり、霧隠才蔵との戦いの試練に勝った五右衛門は、秀吉を一泡吹かせようと、いよいよ京に上ります。
五右衛門は秀吉の側室の茶々に近づき、恋仲になり懐妊させてしまいます。茶々との絡みでフェロマン出しまくります。
五右衛門が秀吉に対面を申し出たところ、実は五右衛門は秀吉の息子で茶々の腹の子は秀吉の孫である事を明かすのです。まぁ、そんな馬鹿な!といいうところですが、秀吉を演じるのが、海老蔵の実際の父親である団十郎が演じているというのがミソです。
その後、金のシャチホコと荒々しく滝の中で派手に戦い、大見えを切りまくり、睨みまくります。
そして、天守閣での大捕りものを演じるのですが、スモーク炊きまくり、分身の術で五右衛門が10になったりと、目まぐるしい大立ち回りです。
最後の大詰めで、冒頭の釜ゆでのシーンに戻るのですが、火を焚くと釜が真っ二つに割れて、つづみが空を舞います。
最後は花道の上に、大きなつづみが宙に浮きいていて、パカリと開くと五右衛門が隠れており、宙づりになりながら・・・またまた大見えを切りまくり、高笑いをして逃げていくのです。

浄瑠璃と長唄が全編に渡ってストーリーを説明し、芝居の型も古典な歌舞伎のスタイルであるのですが、見せ場ばかりを繋げたような大胆な構成になっています。
どの場面を切っても、海老蔵が金太郎飴のように出てきて、海老蔵が睨みをきかせまくるので、インフルエンザにもかかる心配はなくなったのではと思うほどでした。
(新春に睨まれると風邪をひかないと言われるので・・・)
海老蔵のために書かれたお芝居を、海老蔵のために演出し、海老蔵が魅力を惜しみなく発揮しまくっています。
猿之助や勘三郎とは一味違う古典歌舞伎の魅力を凝縮した海老蔵ワールドが見事でした。

新橋演舞場八月歌舞伎公演「石川五右衛門」
市川海老蔵、市川団十郎、中村七之助、片岡市蔵、市川猿弥、市川右近
2009年8月8日~27日

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2009/08/24

圧倒的な仕事量に驚愕するアート〜ステッチ・バイ・ステッチ〜


針と糸で描いた刺繍の展覧会・・・というと、ハンドメイドっぽい「クラフト」のイメージがありますが、東京都庭園美術館で開催されている「スティッチ・バイ・スティッチ」は、手法として糸や針を使ったバリバリの現代美術の作品が展示されています。

一階の入り口を入ってすぐのロビーを占領しているのは、手塚愛子氏による美術史から引用された複数のモチーフを巨大な布に刺繍した作品なのですが、驚くべきことは刺繍された正面ではなく裏側です。
蛍光ピンクの刺繍の裏から数百本の糸が伸びており、後でそれをまとめて床までドドーンと垂らされているのです。
それは刺繍の裏側の美しさを見せるというよりも、刺繍の作業に閉じこめられた濃密な時間と仕事量を視覚的に見せつけているようで、ある意味、作品の巨大なサイズもあって「こわい!」と感じてしまうほど圧倒的でした。

まったく逆の意味で圧倒的だったのは、奥村綱雄氏による文庫本のカバーほどの小さな「夜警の刺繍」というシリーズでした。
刺繍の作業をしながら出来る仕事として、夜警という職業(アルバイト)をしながら制作されたのは、ただただ緻密な細かい刺繍を繰り返し施した長方形です。
近くで見なければ糸の細さが分からないほど、ぎっしりと刺繍されており、どれだけの集中力と忍耐で作られているかを想像するだけで、呆然とさせられてしまう作品でした。

このふたりのアーティストの作品に圧倒されてしまったのですが、清川あさみ氏の造花の鉢植えの葉っぱや花びらに刺繍した作品は、濃密で不気味な世界観を表現してしたし、竹村京氏の写真の上の薄い生地に刺繍した作品は、写真や絵画というジャンルを越えた刺繍での新しい手法だと感じました。
また、秋山さやか氏の地図上に自分の行動や感情を刺繍で表しった作品は、「自分表現」のひとつの方法として興味深いものでした。

去年ニューヨークのアート&デザイン美術館で、この展覧会と似たコンセプトの「Picked : extreme embroidery」という刺繍の現代美術展が行われましたのですが、具象的なイメージの刺繍によって表現された作品が多かったことが印象的でした。
そこには遊びやエンターテイメントとしてアートを楽しむ気質と、コンセプチュアルでより抽象的なアートを嗜好する国民性の違いを感じてしまいました。
日本人の緻密で細かい作業の圧倒的な仕事量は、なにはともあれ観る者を驚愕させてしまうアートなのかもしれません。

ステッチ・バイ・ステッチ~針と糸で描くわたし~
東京都庭園美術館
2009年9月27日まで

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2009/08/20

今さら何故かのノベライズ~「トーマの心臓」森博嗣著~



トーマの心臓」というタイトルと萩尾望都の表紙に騙されてしまった、名作漫画のノベライズでした。

1974年に発表された萩尾望都原作の「トーマの心臓」は、文学と比較されるほどの少女漫画の金字塔といえる名作で、ドイツの寄宿学校を舞台にした少年達の物語です。
ユーリに拒絶されたトーマという少年が自殺するという衝撃的なシーンから始まります。
ユーリは宗教心の強い優等生ですが、過去に暴行されたトラウマによって友達にも神にも心の開けない少年です。
ユーリのルームメイトであるオスカーという少年と、トーマに瓜二つの転校生のエリークという少年によって、ユーリは神に対する冒涜をしたというトラウマを乗り越え、神からの許し、友達からの許しを受け入れて、自己を再生していきます。
美しい少年達の寄宿舎での物語であるということで、ボーイズラブ系漫画の原点のように思われているのかもしれませんが、実はキリスト教の宗教観を強く感じさせる漫画です。
複雑な登場人物たちのさまざまな思惑が絡まり合うにも関わらず、原罪の許しというキリスト教の神の教えがベースにあるからこそ、登場人物たちの向かう心の方向性がハッキリしているので、宗教観を理解すれば非常に分かりやすい物語なのです。
萩尾望都がどれほどキリスト教の理解が深かったのかは不明ですが「トーマの心臓」の外伝となる「訪問者」では、さらに宗教観の強い物語を描いています。

まず、ノベライズ版の舞台設定が、原作の戦後のドイツの寄宿学校から、戦前の日本の男子高等学校に変更していることの理解に苦しみました。
ドイツ人とのハーフという設定になった「オスカー」以外は日本人でありながらあだ名で「ユーリ」や「エリーク」と呼び合うというのは不自然さが際わりありません。
その上、ユーリの自己再生を理解する上に最も大切なキリスト教における「許し」という宗教的な概念がなくなってしまっているのは、原作の本質さえも鼻っから無視しているというトンデモナイ舞台設定の変更なのです。

また、原作の少年が性的存在として目覚め始める微妙な14、5歳という主な登場人物の年齢設定を、あえて17、8歳というボーイズラブ系にありがちな「男の性」を感じさせるような年齢設定に変更した意図というのはどこにあるのでしょうか?
単なる著者の好みなのか、新たな読者の為のサービスなのか、年齢変更によって何ひとつととして物語に深みを増すわけでもなく、逆に17、8歳の男子から「性」を排除している”嘘臭さ”が、より際立つ結果になっています。

原作では「ユーリ」を物語の主人公としながら、読者の視点は「ユーリ」「エリーク」と揺れ動き、時には「オスカー」を始めとするサブキャラクターにも感情移入出来るという、絶妙な語り口のバランンスを保っていて、複雑な登場人物たちの心理が理解出来るように描かれています。
しかし、ノベライズ版では「オスカー」の一人称の視点で描かれてしまっているために、ユーリ、トーマ、エリークを巡る物語は、傍観者の視点でしか描かれることがなく、本筋の物語に感情移入出来る機会さえなくなってしまっています。
「トーマの心臓」という物語のプロットをバックグラウンドに「訪問者」という外伝から続く「ふたりの父親」に対しての「オスカー」の心の葛藤の物語でまとめってしまっているのは、非常に物足りないとしか言いようがありません。

何故、今さら原作に対してのリスペクトでもオマージュでもない物語を、わざわざ「トーマの心臓」というタイトルでノベライズとして発表したということには、たいへん疑問に感じました。
老眼が出始めている原作のファンとしては、雑誌サイズの「トーマの心臓」豪華大判コミック本(扉はカラーで!)の出版をして欲しかったと、思ってしまうのです・・・。



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2009/08/15

言葉にならないこと

ニューヨークの親友が亡くなりました。

いろんな”思い”が、頭や心を錯綜していて、彼の死を理解している自分と、信じられない自分がいます。

彼と僕とは、20数年間のお互いの良い時も悪い時も知り尽くした「無二の存在」でした。ふたりが歩んできた時代を分かち合うことが、もう出来ないことは辛いですが、彼の生きた軌跡は自分の人格や感性として、しっかりと生きていると”確実に”思えるのです。僕の人生にいてくれたことを、ありがとう。

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2009/08/13

いつもどおりの虚構~「バージニア・ウルフなんかこわくない」と「夕なぎ」~



1950年代エリザベス・テイラー(以後、リズ)は「美人の代名詞」というだけで、女優としての芝居のうまさやカリスマ的な人気という点では”いまいち”という気がします。
リズはアカデミー賞主演女優賞の2度目の受賞をしていますが、最初のオスカーは「バタフィールド8」は売春婦役という汚れ役で、美しい女優さんが「こんな役を!」という功労賞的な評価でありました。
「バージニア・ウルフなんかこわくない」では、リズは「32歳」という若さにも関わらず、ブクブクに太ったアル中の中年の大学助教授夫人を演じたのですが、それまで映画の台詞としてタブーだった「FUCK」なんて吐くという、当時として大スターが演じるとは考えられないような汚れ役で2度目のオスカーを受賞しました。

「バージニア・ウルフなんかこわくない」という映画は、アメリカの片田舎の大学の学長の娘(リズ)と結婚しながらも出世しなかった中年大学助教授(リチャード・バートン、以後バートン)の中年夫婦と、赴任してきたばかりの若い助教授夫婦(ジョージ・シーガルとサンディ・デニス)の真の姿が罵り合いの中で暴露されていくという物語です。
美の化身としてハリウッドに君臨していたリズが、映画会社に演じさせられ続けた「美人役」というものに疲れ切っていたのかもしれません。
この役は、映画会社から押し付けれたのではわけではなく、自ら企画の中心になっていたというところが興味深いところです。
劇中の旦那役に、当時実生活でも結婚していたリチャード・バートンを起用したのも、またこの映画が初監督となる舞台演出家のマイク・ニコルズを監督に起用したのも、リズ本人だったということは、彼女が演じたい役だったことを物語っています。
ジャンクフードを食いまくって太って役作りをしたとか、映画冒頭からリズはバートンをヒステリックに侮辱し軽蔑しているのも、後にアル中が原因で離婚することになるバートンとの実生活と重なってしまいます。
世間的にはショッキングだった役作りも、リズにとっては「いつもどおりにやってみました」ってことだったのかもしれません。

ジョセフ・ロージー監督による「夕なぎ」も、別な意味でリズの一面を垣間見せる映画です。
この作品も、リズの熱望によって実現したテネシー・ウィリアムスの戯曲の映画化で、夫であるバートンとの共演した作品のひとつです。
ただ、大富豪の中年女性を演じるリズは当時まだ「35歳」で、彼女を魅了する詩人役が年上のバートンという無理なキャスティングもあって、ロージー監督自身も何を描きたかったか分からないと後年語っているように、一般的には”失敗作”と言われている作品です。

「夕なぎ」という映画は、美貌を失った大富豪の女性が、死の天使と呼ばれる詩人の若い男に惹かれ、誘惑するも、拒絶され、屈辱感のなかで死を迎えるというわけの分からない物語です。
気を強い女秘書や、ゲイの占い師、小人のボディーガードなどのキャラクター達の絡みや、大富豪の女主人が所有する地中海の孤島という舞台、インド風の音楽、妙な東洋趣味(侍や歌舞伎の衣装を引用?)の融合など、その不思議な世界観に戸惑いを覚えます。
ただ、ほぼ全編に渡ってリズは相変わらずヒステリックに怒鳴まくり、使用人たちを罵倒しています。
その中でバートン演じる詩人だけがリズの思う通りにならないというところが、なんとなくバートンとの実際の夫婦生活でのリズのフラストレーションを思い起こさます。

そう言えば「熱いトタン屋根の猫」「去年の夏、突然に」(共にテネシー・ウィリアウス原作)でもリズは美しい人妻ではありましたが、ゲイの旦那から体を求められない役柄を演じていました。
「絶世の美女」として誰もが認める存在でありながら、ピッタリと来るキャラクターがヒステリックな性的にフラストレーションを感じている女性(オバさん)というのは、なんか皮肉なことです。
エリザベス・テイラーという女性は「エリザベス・テイラー」という虚構の女を、スクリーンと実生活で演じていた「女形」のような人だったような気がしてしまうのです・・・。

「バージニア・ウルフなんかこわくない」
原題/Who's Afraid of Virginia Woolf?
1966年/アメリカ
監督 : マイク・ニコルズ
製作 : スタンリー・ドーネン
脚本 : アーネスト・レーマン
原作 : エドワード・アルビー
出演 : エリザベス・テイラー、リチャード・バートン、ジョージ・シーガル、サンディ・デニス
衣装 : アイリーン・シャラフ

「夕なぎ」
原題/Boom!
1968年/イギリス
監督 : ジョゼフ・ロージー
脚本 : テネシー・ウィリアムズ
原作 : テネシー・ウィリアムズ
出演 : エリザベス・テイラー、リチャード・バートン、ノエル・カワード



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2009/08/10

もう「若ハゲ」とは言われない年齢です


20代前半の頃から、将来、頭は薄くなるだろうとは思っていました。
子供の頃から額が広かったし、毛深い方だから男性ホルモンの影響ありそうだし、段々と生え際が後退していくだろうなぁ・・・と思い込んでいたのです。

ところが、意外にも30、40と歳を取っていく過程で、それほど劇的に「若ハゲ!」という事態は起こりませんでした。
数年前に男性ホルモンの数値を調べたら低い方だったので、もしかすると、このままビミョーに薄毛状態維持かも・・・なんてこと考えていたのでありました。
また周り心優しい友人達ばかりなので、あからさまに「禿げたね!」とは面と向かって言うことはありません。
しかし、2年ほど前に友人の子供に「ハゲ~ッ!」と唐突に呼ばれ・・・やはり自覚はしなければいけないと感じ始めていました。

先日、いつも行くところとは別の近所の安い散髪屋で髪を切ったところ・・・髪の薄っすら感が増した頭に仕上がりました。
夏で暑いこともあって「短め」でお願いしたところ、全体的に薄毛がかなり進行・・・という厳しい頭髪状況を露にしてしまったのです。
ヘアドレッサーの人もわざと薄毛を強調しようと思ったわけではないので、仕方ないことではあります。
ただ、丸坊主にしても”さま”になるような美しい頭部の形態ならば、思い切って丸坊主に剃ってしまっても良いのですが、生まれながらの馬面巨顔の上に、歯医者が感心するほど下顎がしっかりしてデカいので、丸坊主にするとまるで「モアイ像」のようになってしまうのではないか・・・という”恐怖”があるのです。

まぁ・・・「モアイ像」としての新しいアイデンティティーを築くというのも一案ではありますが、今のところは、帽子でなんとか頭部全体のバランスを取っていこうと足掻こうと思います。
そういうわけで、今後、帽子はますます必須アイテムとなりそうです・・・。

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2009/08/08

思いどおりにならない面白さ〜トモダチコレクション〜



6月中旬に発売されて以来、毎日遊んでいるニンテンドーDSの「トモダチコレクション」というゲームがあります。
優香の出演するテレビのCMで・・・バナナマンの日村が和田アキ子の告白を断わったり、船越英一郎と結婚した自分に「お幸せに・・・わたし」と、しみじみ優香がつぶやている”アレ”です。

任天堂の家庭ゲーム機のWiiには「似顔絵チャンネル」という「Mii/ミー」というアバターを作って遊ぶというソフトがあります。
顔の形から、まゆ、目、鼻、口などの”ふくわらい”のようなパーツを配置して似顔絵のアバターを作れます。
パーツの大きさ、配置、傾きなどを微調整することができるので、要領を憶えれば自分や友達(または有名人など)は、かなりソックリに作れます。
このアバターは、ニンテンドーの他のゲームソフト(Wii スポーツなど)に画面上にプレイヤーとして登場したり、「Miiコンテストチャンネル」というソフトを通じてMiiをネット公開したり、特定のテーマのコンテストに参加出来たりします。

このMii/アバター達のコミュニケーションを楽しむのが「トモダチコレクション」というゲームで・・・(ある程度プレイすると)Miiは似顔絵チャンネルからインポートすることも出来るので、すでにWiiで作成したMiiで引き続いて遊べるます。
また、コンテストチャンネルで気に入ったMiiを似顔絵チャンネル経由で、トモダチコレクションにもインポートすることが出来るので、自分で一から作らなくてもMiiを取り込めるわけです。
「トモダチコレクション」にいるMiiには、生年月日、血液型、声質、しゃべり方のイントネーション、性格の設定をすることで、より現実(?)に近くすることでますます楽しくなるのです。

このゲームに決まった目的があるわけではありません。しばらく遊ばないからといって、Miiが死んでしまうという育成シュミレーションゲームでもありません。
「トモダチコレクション」のなかのMiiたちが勝手に関わりを持って、友達になったり、ケンカしたり、恋愛したり、結婚したり(果ては離婚も)するのを、眺めたり、お手伝いしたりします。
ただ、残念なのは恋愛可能なのが異性同士のみというところ・・・オプションの設定で同性でも恋愛できたら良かったのですが。
Miiから感謝されるとお金が増えるので、そのお金で食べ物を買ってMiiに与えると、好物だと喜ばれたりします。
さらに洋服やインテリアをコレクションする楽しみがあって、それぞれのMiiに合わせたスタイルを与えることができるのです。

任天堂の「どうぶつの森」シリーズにちょっと似たところもありますが、自分のキャラクターは登場するMiiの1人でしかありません。
自ら設定したMiiたちが、リアルに存在する友達や有名人の分身たちが現実ではあり得ない人間関係を築いていくさまに、ついつい感情移入してしまうのです。
プレイヤーがMiiを直接操作したりすることは出来ずに、傍観するだけというプレイ感覚こそが「トモダチコレクション」の重要な要素であるように思います。
プレイヤーが設定出来る要素(見た目や性格など)が、どのようにMiiの人間関係に影響するかはゲーム内のパラメーターからは、まったく推測することは出来ません。
それは現実の人間が思い通りには動かないのと似ています。



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2009/08/06

ニューヨークでみた展覧会~Yinka Shonibare MBE~



ファッションデザインに関わっていた者としては、現代アートで洋服の引用される際に気になっていたことはありました。
実際に着る服として作られてなく、概念としての洋服を引用としているためか、ファッション/服作りの観点からすると完成度の低い服であることが多いような気がしていたのです。
それでも、アーティストの意図は十分伝わることが多いのですが、単に服作りに関して無知な部分というのはアーティストの意図とは無関係というケースもあると思えるのです。

ブルックリン美術館で展覧会の行われている「Yinka Shonibare MBE 展」は、ファッションの引用という形をとったアートとしては、稀にみるほどファッション/服作りの完成度の高い作品群を発表しているアーティストです。
イギリス生まれのナイジェリア人というエスニックのバックグラウンドを持つ彼の作品の殆どは、アフリカンプリントのテキスタイルを使用しています。

我々にも馴染のある、このアフリカンプリントというのは、実はアフリカから生まれたテキスタイルでもなく、アフリカで生産されているテキスタイルでもありません。
アフリカを植民地化していた時代に、オランダの会社が植民地にしていたインドネシアのテキスタイル技術(バティークプリント)を利用して、アフリカ輸出向けに特別にデザインして生産しアフリカの人達に売りつけた、植民地から摂取する経済戦略でもあり、アイデンティティーさえ奪う政治的戦略の賜物だったのです。
そして、現在でもこれらのテキスタイルは(現在では主に)イギリスで生産されて、アフリカへ輸入されています。

Yinka Shonibare MBE(インカ・ショニバーレ・MBE)は、シャネルなどのロゴをあしらったオリジナルのアフリカンプリントのテキスタイル生地で、ビクトリアン時代の衣装を緻密に再現し、ファイバーグラス製のマネキン(首なし)に着せた彫刻作品を多く発表しています。
それらは、西洋絵画や西洋史にあるようなシーンを再現するという、幾重にも引用を重ねた作品です。
また、彼自身が衣装を着て、西洋史や西洋文学の白人男性のキャラクターになりすましている写真作品もあります。

植民地搾取の産物であり、アフリカ系の人達のアイデンティティーとして存在しているアフリカンプリントのテキスタイル生地で作られたビクトリアンスタイルの衣装は、アーティスト自身のバックグラウンドとアフリカが経験した不幸な歴史を感じさせると同時に、植民地であったアフリカと搾取をしてきたヨーロッパの立場を逆転したような妙な印象さえ与えます。
衣装が、ビクトリアンスタイルに忠実であれば、あるほど、そのアイロニーが二重、三重にも際立ってくるのです。
パターンや縫製の技術によって服としての完成度が高いことが、アーティーストの意図と連動している「アート」→「ファッション」として見事に成功している作品でした。

Yinka Shonibare MBE
Brooklyn Museum,
Morris A. and Meyer Schaporp Wing, 4th Floor
Period Rooms, 4th Floor
Robert E. Blum Gallery, 1st Floor
200 Eastern Parkway, Brooklyn
2009年9月20日まで



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2009/08/05

ドラッグにまったく興味ない子でした


日本では、とかく「絶対悪」のように扱われる「ドラッグ」ですが、アメリカでは「ドラッグ」=「犯罪」というニュアンスではなく、ごく日常的に行われている事でした。
州によっては痛み止めや精神安定薬として医者に処方されれば薬局で買えたりするし、学生のパーティーでは大麻(時には覚せい剤も)は当たり前のようなところもあったし、エクスタシーなどもクラブに行く前に摂ったいりするので、ドラッグが大変な犯罪であるような雰囲気はありませんでした。

ニューヨークに留学を決めた際に、高校時代の元担任が心配したのは、治安の問題もありましたが、ドラッグの誘惑の危惧でした。
実際のところ、逆にニューメキシコのような僻地(へきち)の方が何もすることがないので、学生たちは夜な夜な集まってドラッグパーティー・・・という感じだったりするので、ニューヨークのような都会だから特にドラッグが蔓延しているというわけではないのです。
結果的に、自分はニューヨーク留学を決行したわけですが、確かに元担任が心配するような誘惑の環境がありました・・・日本人留学生の中で。

1981年の当時はカリフォルニアと比べて、ニューヨークの日本人留学生の数は少なく、日本人留学生の世界は狭いものでした。
自分のまわりには、大学を卒業したばかりの22,3歳のグループと、一度社会に出て働いてお金を貯めて留学してきた27.8歳のグループがいたのですが、年長グループは、ドラッグ目的の留学というぐらいドラッグ漬けのグループでした。
若いグループも基本的にドラッグ大好きという感じで、機会があれば「ぜひ、欲しい!」というノリでした。
そんな日本人グループの中でドラッグに手を出さなかったのは、一番年少だった(18歳)の自分だけでした。
自分は未成年ながらアルコールは飲んでいましたが、どんなに勧められてもドラッグには一度も手を出すことはありませんでした。
周りにとっては白ける態度ですが、雰囲気の順応性だけには長けていてようで、お酒だけしか飲んでいないのにテーブル上で踊りまくるような”はしゃぎ方”をしていたので「スゲェ、ぶっ飛んでんじゃん!」としか思われなかったようです。

今でも「留学=ドラッグ」というのが一般的なのかは分かりませんが・・・アメリカ留学の時に経験して、それから癖になったという人は少なからずいると思います。
潜在的に依存症の傾向があったり、元々ドラッグに興味があったり、仲間グループから疎外感を感じたくないようなタイプの人にとって、日本より格段にドラッグに対する社会的なハードルが低く、不法という意識が希薄で、容易く手に入りやすい環境にいると、日本のような「絶対悪」という感覚は持てなくなってしまうのかもしれません・・・。

どうして自分が、頑なにドラッグに手に出さなかったのかは、自分でもよく分かりません。
欲しければ入手することは可能な環境でしたが、倫理的、法律的にドラッグを拒否する強い意志や信念ということではないのです。
ただ、どうしても、自分は「ドラッグ」というモノに興味を持てないだけなのでした。
それは、ある意味ラッキーなことだったのかもしれません。

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2009/08/04

ハンドルネームの由来って深い意味あるの?


インターネットで何かに登録する際に、本名とは違う「ハンドルネーム」の記述を求められることがあります。
メールアドレスを決める際にも、実際の名前”だけ”をズバリ登録できることは殆どないので、誕生日を加えたり、あだ名にしてみたりと、何らかの工夫が必要だったりします。
「ハンドルネーム」というのは、適当につけているようでいて、それなりに深い意味があったりするモノなのかもしれません。

約10年ほど前に、初めて出会い系サイトに登録した際に、本名に近い名前を使うのは憚れるので・・・ある有名な少女漫画に出てくる執事の名前を拝借しました。
漫画のなかでは、脇役で名前以外の設定も一切不明だったし、キャラクターの絵柄が自分に似ているわけでもなく、直感的に選んだ名前でした。
結局、その後数年間に渡って、その名前をネット上では使っていたわけで、そこそこの愛着が出てきたりしました。
ただ、ハンドルネームの由来を尋ねる人というのは皆無だったし、自分自身でも由来はどうでも良いことになっていました。
ところが、その漫画をテレビドラマ化したビデオを観る機会があったのですが、その役を演じている役者さんが自分と遠からず・・・といった風貌で、どこか縁があった名前だったのかもしれないと改めて思ったりしました。

「ハンドルネーム」にまつわることで、先日ちょっと複雑な気持ちになる事実を知ることがありました。
久し振りに出会い系サイトをボケーっと眺めていたのですが、自分のファーストネームと同じ名前の登録を見つけたのです。
ある有名な役者さんと同じ名前であるし、比較的珍しく憶えやすいので、偶然にということも考えられます。
ちょっと関心を持って登録者の画像を見てみると、8年ほど前に出会い系サイトで知り合って、何度か会った事のある人だったのです。
自分はリアルで会う時には「ハンドルネーム」は止めて、本名を名乗ることにしているので、勿論、彼にも本名で会っているはずです。
その後は、残念ながら友達としても発展せずに、飲み屋さんとかで顔をあわせれば会釈する・・・という程度の仲でした。
ただ、ここ4,5年は顔を合わす機会も、連絡を取る機会もなくなっていました。

見知らぬ人でも自分の本名をハンドルネームとして名乗られているのは、ちょっと変な気がしますが、僅かながらでも縁のあった人が・・・というのは、妙な気分です。
何故、彼がその名前をあえて選んでいるのか、尋ねてみたくなってしまうのです。

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2009/08/03

「ファッション」→「アート」の相性って悪くない?


デザイナーレーベルの存在意味の、ひとつの模索なのかもしれませんが、ここのところ「アート」というのがデザイナーコレクションの”キーワード”のひとつになているような気がします。
ただ、単にアート的な図柄を服に貼り付けていたり、服としての構造とは無関係なアート風な造形だったりという安易な取り入れ方というのは、結果的に消費者に陳腐な印象しか与えません。

マーク・ジェコブスがディレクターを勤めるルイ・ヴィトンのバックのデザインを日本人アーティストの村上隆を起用したことは、ファッションと現代アートのコラボレーションのひとつの形ということになっていますが・・・アートを起業ビジネスと捉えている村上隆自身がすでに十分コマーシャルな存在なので、ある意味、世界的なブランドとの「営業」でしかないように思えてしまいます。

ファッションの歴史の中でも、アートの引用という意味で成功している例は、イヴ・サンローランのモンドリアンドレスの他、僅かかもしれません。
絵画(もしくは彫刻とし)すでに成立しているイメージを、あえて服やアクセサリーに引用する意味というのは、単純なアート趣味の押し付けのようで、ファッションとしての存在意味を逆に失わしているのではないでしょうか?

ファッション界というのは、どこかにアートに対するコンプレックスを抱えているようなところがあり、売り上げ至上主義のビジネスであるという立場に反するように、ブランドとして尖りたければ尖りたいほどアート嗜好というのが意識下にチラチラとして、自らのファッションの立ち位置を現代のアートと並べたがる傾向があるように感じます。
欧米の大きなメゾンは、財団などを設立して何らかの形でアートに関わったり、サポートすることが多くあります。
しかし、所詮、イメージをビジネスにしているメゾンが関わっていくのは、アートの中でも工芸品などが中心です。
ファッションが「美しさ」や「若さ」というイメージを売っているのと同じように、アートが感じさせる「意味深げなインテリジェンス」に永遠に憧れ続けるている証拠なのかもしれません。

水戸芸術館で開催中の「手で創る 森英恵と若いアーティストたち」を観て、ファッションデザイナーが若いアーティストをサポートするという形で「アート」に関わるという事も難しいもんだと感じました。
展示作品は、プリーツした紙の円錐、写真に刺繍、ぬいぐるみの家、テーマに沿って造形された靴や下駄、影の絵のイラストなど、クラフト的な手法を使いながら、日本的な「カワイイ」雰囲気の作品たちでした。
発想のスタートしての「試作品/習作」としては評価出来るものの、完成したアート作品として成熟していない印象でした。
ファッションデザイナーのサポートということで成立している企画のようで、なんとも「アート」というものが”ちょろく”思われているような気さえしました。

「アート」は「ファッション」という事象を取り入れて成立するけど、「ファッション」は「アート」という概念を含んで存在することが難しい”商品”なんですよね・・・。

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2009/08/01

ランキング遊びを始めました


テレビでも歌番組がまだたくさんあった時代・・・自分だけでのランキングをつくって遊ぶという行為というのは、誰もが楽しんでいたことあるのではないでしょうか?
ちょっと上からの目線で何かを評価して順位をつけていくという行為は、子供でなくても結構楽しいものです。
大人になってから「ランキング遊び」というのは、それほどしなくなっていたのですが、どういう「お題」でランキングをするのか、その限られた「お題」で何が選ぶのかで、何か伝わることもあるんじゃないかな・・・と思いたったので、不定期になるとは思いますが、勝手なランキングを発表していきま~す
・・・まぁ、誰もそれほど関心ないことかもしれませんが。

自分が興味あるものは、いくらでもランキング付けが出来てしまうので、あまりランキング数を多くすると、本来のランキングをするという意味が薄れてしまうような気がします。
ランキングと言えば「ベスト10」が一般的なのかもしれませんが、ジャンルによっては8位,9位あたりは、適当にランキングに入れてしまわないと、10位まで埋まらなくなりそうです。
「ベスト3」だと、選びに選ばないと決められないので、ランキングというよりも、絶対に外せないランキングになってしまいそうです。
「ベスト5」だと、あれも、これもと、遊び感覚でランキングに入れるいうことが、ちょっと難しくなりそうです。

そこで「トップ7」を選ぶことにしました。
絶対外せない1,2,3位、これも入れておきたい4,5位、ちょっと遊びで6,7位という感じでしょうか?
話題が広がりそうな気がしたら、後々ブログで改めてまとめるかもしれません。
めのおかしホームページ」のサイドバー「おかしのトップ7」という小さなコーナーをつくりました。
詳しい解説は「おかしのトップ7/RANKING」ページの方にコメントを書きますので、興味を持っって頂いた方は、そちらをご覧下さい。。

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