2010/09/16

日本男児へのリピドーの原点・・・ボクが外専にならなかったわけ~矢頭保写真集「OTOKO」~



矢頭保という写真家の写真をボクが初めて見たのは、1979~80年頃に工事現場の交通誘導員のアルバイトをしていた時でした。
ボクの配置された現場の近くには休憩所として近所のアパートの一室が借りられていて、仮眠したり、早く工事が終わった日には睡眠をとることが出来たのです。
何故か、その部屋にはゲイ雑誌(「青年画報」「さぶ」でした)を置いてあり、ボクは人目を盗んではコッソリと見ていたのでした。
現場のリーダー格だった30代のゲイの男性が、若いアルバイトの興味を惹くためのトラップとして、その手の雑誌を置いていたようで・・・何度か怪しい雰囲気になることもあったのです。
雑誌の巻末には写真集などの広告が掲載されていて、波賀九郎の「梵/BON」シリーズなどと共に、写真集「OTOKO」の広告が載っていたのでした。
その後、新宿の二丁目のゲイブックストアに足を運んで、実際に中身を見る機会がありました。
殆ど経験がなかったボクは、自分がどんなタイプが好きかということは、まだ分かっていなかったのですが・・・「OTOKO」を手にして、自分のなかで何か弾けたのでした。
いかにも「日本男児」という風貌の鍛えられた肉体のモデルのモノクロ写真に、ボクはすっかり魅せられてしまったのです。
ボクが20年間のアメリカ生活をしても、本質的に「外専」にならなかったのは、この写真集での衝撃があったからかもしれません・・・それほど嗜好を決定的にしてしまったといっても過言ではないのです。
それほどリピドーに触れた写真集だったのに関わらず、結局、買わず仕舞いのままだった理由は、当時のボク(18歳)にとっては、そこそこ高価な本だったから。
「OTOKO」を撮影した写真家の名前が「矢頭保」であると知るのは、それから随分と年月が経ってからでした。



矢頭保は、ボクの母親と同じ年(1925年)に生まれていて、三島由紀夫とも同い歳であります。
母によると、同世代の男性は第二次世界大戦で徴兵され、戦死している人が非常に多いそうです。
1952年(27歳)で宝塚歌劇団の男子研究生として入団したというのが最も古い経歴なのですが、それまで矢頭保何をしていたのか・・・残されている記述はありません。
ダンスが得意で男性的な体格(マッチョ)だったことから「和製ターザン」と呼ばれていたということだから、すでにボディビルのようなことをして身体を鍛えていたことは確かのようです
後に写真家として彼が好んだ「日本男児」というのは、彼自身のイメージの延長上にある理想だったのかもしれません。
1956年(31歳)で東京の日活に所属してアクション映画に端役で出演することもあったようです。
東京に移ってから、三島由紀夫の「仮面の告白」「潮騒」の翻訳者だったメレディス・ウエザビー(元米軍情報関係将校のアメリカ人)と知り合い、六本木7丁目にあったウエザビーの家で同棲し、経済的な援助を受けるようになったようです。
ウエザビーからニコンのカメラを買ってもらい、友人にカメラの使い方を教えてもらっただけで、特に学校で写真の教育を受けたわけでも、写真家に弟子入りしたわけでもなかったそうですが、美術関係の専門書の出版もしていたウエザビーの影響はあったに違いないでしょう。
三島由紀夫とは、ウエザビーが自宅でよく開催していたゲイのパーティーで知り合ったらしく、その後、切腹写真などプライベート写真も多数撮影し、交流は深かったようです。
ふたりの間に肉体関係はなかったようですが、三島由紀夫がオープンに自分の性癖(同性愛だけでなく切腹趣味)をシェア出来る貴重な友人であったのかもしれません。

1966年に出版された矢頭保の初めての写真集「体道~日本のボディビルダーたち~/Young Samurai」は、とりあえずは「まじめなボディビルの写真」としての体裁にはなっています。
ただ、三島由紀夫の影響やサポートによって出版されたことは明らか・・・日本人ボディビルダーの筋肉美を丹念に写している写真集の中に、いきなり三島由紀夫は褌姿で刀を持っている写真が挿入されていたり、英語版には三島由紀夫が序文まで書いているのですから。
また、英語版はウエザビーの出版社から出版されているので、ある意味、自費出版のようなものだったのかもしれません。
1969年に出版された「裸祭り/Naked Festival」は、裸祭りを記録している写真集なのですが、矢頭保の意図は明らかに「たくましい男の褌姿」を撮ることのように思えます。
そこには前作の「体道」のボディビルダーのような不自然さはなく、裸祭りのナチュラルな日本男児のエロスを表現しています・・・ホモエロスという世界ではありませんが。
「裸祭り」でも、三島由紀夫が序文を書いており、英語版の出版はまたもウエザビーの出版社からでした。



三島由紀夫の死後の1972年に出版され、矢頭保の最後の写真集となった「OTOKO」は、三島由紀夫に捧げられています。
「OTOKO」は、明らかな男性ヌード写真集ではありますが、下品に性欲興奮を煽ることは意識的に避けているような印象です。
・・・といって、いわゆる芸術的な表現を試みた写真というほどではなく、どこか憂いを漂わせるモデルの表情からは、矢頭保が好んだ寡黙で硬派な「日本男児」を追求した写真だと感じさせます。
撮影のシチュエーションには凝り過ぎた不自然なものも若干ありますが、外国人から見た「和の世界」という演出なのかもしれません。
「OTOKO」が出版された後、ウエザビーに新しい恋人ができ、ふたりは同棲を解消しています。
それでも矢頭保ウエザビーは彼を援助し続ける義務があると思っていた節があるようなのですが、それはウエザビーによって「ウケ」として調教された・・・という思いがあったからだそうです。
その後、矢頭保はカラー写真集の出版の準備をしていたらしいのですが、それが完成する前に48歳(1973年)で心臓疾患で急に亡くなりました。
三島由紀夫というインスピレーションを失い、ウエザビーというパトロンを失った矢頭保は、写真家としてだけでなく、人生さえも終わらせてしまったようです・・・。

数年前から「OTOKO」を入手しようと思って捜してみたのですが、40年近く前に出版されている本なので、今では「非常にレアな中古本」として、アマゾンのマーケットプレイスなどでは非常に高額で取引されていました。
そこで、世界各国の中古本屋のサイトで地道に捜し続けて、なんとか100ドル程度で購入することができたのです。
30年ぶりに見た「OTOKO」は、ボクの記憶にあったそのままで・・・改めて自分のリピドーの原点を確認したのでした。

矢頭保が”カリスマ写真家”になるまで/その1・・・宝塚歌劇団男子部から日活アクション映画の端役時代

矢頭保が”カリスマ男色写真家”になるまで/その2・・・パートナー兼パトロンだったアメリカ人メレディス・ウィザビー(Meredith Weatherby)と写真集三部作「体道」「裸祭り」「OTOKO」



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3 件のコメント:

  1. はじめまして。
    自分も最近、矢頭保氏を知りました。
    自分も趣味で男性ヌードを撮影しているのですが、どことなく真似たワケでないですが作品の雰囲気が似てる気がしました。
    矢頭氏も
    女性=柔らかくて優しいイメージ
    男性=硬くて荒々しいイメージ
    を抱いてたんではないでしょうか?
    共感出来る作品です。

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    1. 僕もビルダー志望だったので、モデルになりたかったです…
      オッサンのヌード写真に需要は無いかも知れませんが…

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  2. 僕もボディービルダーになって、生まれたままの裸体を写真に残したかったです…もうオジサンですが…

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