2010/02/28

こういう女性には、とても敵わない~「この世は二人組ではできあがらない」/山崎ナオコーラ著~

映画「人のセックスを笑うな」は、永作博美の演じるつかみどころのないユリが魅力的で、僕のお気に入りの邦画の一本です。

些細なエピソードと細かな心情を描く空気感によって、妙な緊張感も感じさせる映画でした。

タイトルの「人のセックスを笑うな」と内容がマッチしていない不思議さと、原作者の”山崎ナオコーラ”という不思議な作家の名前が記憶に残りました。


山崎ナオコーラの最新作「この世は二人組でできあがらない」は、主人公(栞)の生まれが著者と同じ1978年だったり、小説家を目指していたり、主人公のモノローグで書かれていたりするので、自伝的な小説といってもいいのかもしれません。

物語は大学時代に出会った一学年上の紙川との関係を中心に進みます。

栞のこころの内の言葉、二人の淡々とした会話、栞が図書館で借りた本や観た映画のタイトルによって、二人の関係を描写しているのですが、恋愛物語として感情が盛り上がるわけでもありません。

栞のルックスに惚れている紙川の思いを受け入れるということが、栞にとって付き合うということになっていくのですが・・・それは恋愛に積極的でないのに男が放っておかない女性がしてしまう付き合い方のような気がしました。

とびきりの美人でないにしても、男好きする女性にありがちな・・・。

二人は「たまプラーザ」の小さなアパートの一室で同棲を始めるのですが、紙川はアルバイトをしていた塾をある理由で辞めてしまい、栞が毎月お金を貢ぐことになってしまいます。

紙川は、自分が公務員になって生活を安定させたら結婚して、栞には自由に小説を書かせてやる・・・などと、いい加減な将来を語るような”しょうもない男”です。

同棲をやめて、お互いに連絡を取らないような状態が続いても、栞は紙川の煮え切らない態度を責めるわけでもなく、ズルズルとお金だけは貢ぎ続けます。

結局、栞は新人賞を受賞し作家としてのデビューが決まり、あっさり紙川とは別れてしまうのです。

断片的なエピソードや心情を積み上げていくことによって、主人公を妙に生々しく感じる・・・巧みな小説ではありました。


栞は人生について健気に考える感性豊かな女性として描かれていますが、女性ならではのたくましさも感じられます。

男女二人組(夫婦の戸籍)で世が成り立つのではなくて、ひとりひとりが広く社会と繋がっている・・・と、栞が悩むシークエンスが「この世は二人組でできあがらない」というタイトルの由来になっているようなのですが、二人組(夫婦)になることや男性に依存することが、彼女の人生の前提ということなのでしょうか?

自立している女性は(既婚者でも)男女二人組(夫婦)という単位で世が成り立っているなんて、前時代的な誤解はしていないと思います。

紙川との関係によって、栞がどんな小説を書いくようになったのかは明らかではありませんが、作家になるという次のステップに進んだ栞にとって、紙川はすでに不要なの存在になったのかもしれません。

文壇の男たちによって栞の作家へのレッドカーペットが引かれていたとしても、そのしたたかさを見破ることは難しく・・・こういう女性には、とても敵わないのです。



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2010/02/26

ハリウッド映画の職人芸によるヒッピーの出世物語~「アバター」~




遅ればせながら・・・川崎IMAXシアターで「アバター」を観てきました。
自宅の大型液晶テレビとサラウンドスピーカーシステムでブルーレイディスクの映画を観ると、劇場で観るよりも画面が緻密だったり、音がハッキリ聞こえたりするので、劇場に足を運ぶ機会とうののは減ってしまっています。
本格的3D超大作というアミューズメント的な売りで「アバター」が、世界興行収入歴代ナンバー1となったというのも納得です。
今までの3D映画のように”何かが画面から飛び出してくる”ことに立体感の陳腐さではなく、”奥行きによる空間”を作りだすことによる臨場感の演出は、確かに理屈にかなっています。
どんな立体技術を駆使しても、スクリーンの枠をはみ出して”飛び出る”ことはあり得ないのですから・・・。

「アバター」のテーマをひと言でまとめるなら、タイムリーな”環境問題”ということになるでしょう。
ただ、この映画を観て環境問題に目覚める・・・というような観客はいないとは思います。
インディアンの迫害(ナヴィ族=アメリカインディアン)、ベトナム戦争(ヘリコプターによる攻撃)、9・11テロ(巨大なツリーの崩壊)などの、アメリカを自己批判するようなメッセージというのは、は近年のハリウッド映画では、ベタな正論のステレオタイプでしかありません。

ジェームス・キャメロンが以前監督した「エイリアン2」では、シガーニー・ウェイバー扮する人間の女性が、モビールスーツで「Get away from her, you bitch!」と叫んで、エイリアンの親玉と戦い勝利しました。
「アバター」では、人間の悪の化身のような大佐が、モビールスーツで「Come to Papa!」と挑発して、ナヴィ族の女性の矢に敗れます。
死にそうな主人公(地球人のサイズ)を抱きかかえる巨大なナヴィ族の女性の姿は、ミケランジェロの「ピエタ」を思い起こさせました。
「ターミネーター」シリーズでも「タイタニック」でも、キャメロン監督作品で描かれる”女性”は、常に圧倒的にパワフルで、体格的にも大きさを感じさられます。
それはキャメロン監督自身の女性像そのものなのかもしれません。

アメリカ白人の中には、有色人種(アメリカインディアン、日本や中国のアジア、インドなど)のネイティブな文化への強い憧れを持っている人たちが60年代後半(ヒッピー全盛時代)から存在しています。
資本主義と圧倒的な戦力で世界を征服し続けるアメリカ白人社会では落ちこぼれの主人公が、アメリカの価値観を根底から覆すスピリチュアルな社会でヒーローとなっていく物語というのは、ヒッピーの理想かもしれません。
ただ、そのようなメッセージを訴えるジェームス・キャメロン監督自身は、興行的に世界征服を果たした、まるでアメリカ白人の資本主義の頂点に立つような存在でもあるということは、ある意味”皮肉”ではあります。

物語の薄っぺらさを指摘されがちな「アバター」ですが・・・アメリカ社会を皮肉る左翼的なメッセージと、あらゆる引用の伏線を張り巡らしながらも、世界中の誰にでも受け入れられる映画仕上げてしまう「ハリウッド映画の職人芸」の頂点であることは間違いはありません。

「アバター」
原題/Avatar
2009年/アメリカ
監督 : ジェームス・キャメロン
脚本 : ジェームス・キャメロン
出演 : サム・ワーシントン、シガニー・ウィーバー、ゾーイ・サルダナ


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2010/02/24

大きな声をもつ人の声が、さらに大きな声になっていくネットの格差

数年前の調査ですが・・・「世界で最も多いのは日本語ブログ」ということを聞いたことがあります。

「自己表現が苦手」と言われ続けてきた日本人は、実はネット上で自己表現をすることには積極的な人種だったということでしょう。

ただ、ホームページやブログなんて自分では全然やりたいとも思わない・・・という人からすると「なんで、自分の生活をネットで公開したいの?」「よっぽど、リアルライフが貧しいのね」というような差別的な誤解も、まだまだ存在しているようです。

しかし実際には、ブログ(SNSやtwitterなども含む)などで活発に発言する人たちの多くは、実はリアルライフでも自己主張の強さも持っている人が多いような気がします。


結婚詐欺殺人の女のように、ネット上で虚構の人格になりきっているブロガーというが、まったくいないわけではありませんが、それはごく少数でしょう。

ただ、プチ妄想気味に多少自己演出に長けたブロガーというのは、それなりに存在しているように思います。

「勝ち組きどり」「アイドルきどり」「グルメきどり」「評論家きどり」・・・基本的にブログというのは、ある種の自己申告で成り立っているので、その人が世間に認知されたい自己アピールが入るのは仕方ないことです。

しかし殆どの場合、リアルライフでもそれなりに社会的にも活躍している人がインターネットを通じて、さらに社会へ自己主張をするという良い相乗効果になっていることの方が多いのかもしれません。

そういう自己宣伝に長けた人たちのポジティブ、かつ、貪欲なパワーに、胡散臭いさを感じるか否かは、閲覧する側の感じ方次第なんだと思います。


雑誌などの印刷物が情報を得る一番の方法だった時代には書き手は一応はプロで、それなりの経験や責任を背負って、情報を発信しているというのが前提でした。

しかし、誰もがネット上で意見を自由に言える民主的なネット社会では、正確でない情報や、独断的で参考にならない情報というのも多く発信されています。

レストランを検索して出てくる一般人の評価ほど、当てにならないものはなかったりします。

本来であれば世の中に流れるべきでない、流れる必要のない情報もドンドン広がっていってしまうので、有益な情報が検索サーチの網の中で埋もれてしまうことも多々あります。

本当に良識のある見解をもった人だけがネットで発言してくれれば良いのですが、そういう人に限ってネットを利用しないことが多いようです。

良くも悪くも、ネット上に存在する多数決の意見が、結果的に正しい情報として認知にされてしまうのでしょうか?

インターネットが普及した以降の事項はネットに記録されているので将来的にも検索出来ても、ネット以前の出来事は誰か正確な記録の残さない限り、いつか人々の記憶から消えてしまうのでしょうか?

大きな声をもつ人の声を、さらに大きな声にする拡声器のようなネットのツールが、一部の声の大きな人たちによってコントロールされるメディアになってしまうのであれば、新しい格差を生むことになるような気がしてならないのです。


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2010/02/21

昭和レトロでもトレンディドラマでもない・・・”桃井かおり”な時代のドラマ~「ちょっとマイウェイ」~


昭和歌謡や弾き語りのフォークだったり、70年代や80年代ファッションだったり、懐古的に振り返る「過去」というのが、自分自身でしっかりと経験した時代になってくると・・・自分の年齢というのを考えさせられます。
流行として「再発見」される過去は、その時代を実体験をしていない若い世代にとっての「ツボ」にハマる部分だけを大雑把にピックアップして過大評価しているように、リアルタイムで経験しているオトナには感じてしまうものです。
ただ、我々の世代だって「大正モダン」や「ミッドセンチュリー」などを勝手に再発見して喜んでいるわけで・・・未経験だからこそ”当時以上に”高い評価をして楽しむというのは、どの時代でも行われていることなのかもしれません。

洋食のレストラン「ひまわり亭」を舞台に、三姉妹とその家族、そしてその店で働く人たちの物語がコミカルに描かれる「ちょっとマイウェイ」は、「昭和のファミリードラマ」でもなく「トレンディドラマ」でもない、70年代と80年代の狭間の1979年秋から1980年春に放映されたテレビドラマです。
ただ、この時代(1980年前後)は、ファッション的にもカルチャー的にも、その前後のインパクトに負けてしまっているような気がしています。
70年代ほど可愛いらしいレトロ感がある時代でもなく・・・といって80年代のバブル時代ほど突っ込みどころ満載のオバカっぷりといわけでもなく・・・若い世代に再発見/再評価されることが殆どないようなのです。
「ちょっとマイウェイ」のDVD化を渇望していた層というのも、おそらくリアルタイムでドラマを観ていた人たちばかりのようで・・・2006年にDVD化が実現されて新たな若い世代のファンが生まれた、という感じではありません。

舞台となる代官山は、当時すでにヒルサイドテラスもあって、おしゃれな高級住宅地のひとつでした。
70年代後半には路地があるような町並みではなかったので、ドラマを観ていて「これって代官山なの?」という違和感はあったことを覚えています。
物語はしっかり者の三女のなつみ(桃井かおり)が、当時都内のあちこちで行われていた都市開発によって、閉店寸前に追い込まれていた実家の「ひまわり亭」に戻ってきて再建を決意するところから始まります。
桃井かおりは「幸せの黄色いハンカチ」で助演賞を総なめにして役者として高い評価を受けていただけでなく、男に媚びない姉御肌の個性的なキャラと独特な語り口や発言で注目されていた女優でした。
ちょっと肩パッドが入ったカーディガンやジャケットを肩に羽織り、スリムなテーラードスカートにハイヒールという70年代末期の”小林麻美チックな”ファッションというのも、一般的には桃井かおりのイメージの方が強く、まさに時代の寵児として「翔んでる女」の象徴だったのです。
そんな桃井かおりが「桃井節」というような台詞まわしで”桃井かおりらしさ”を全面的に押し出した”初の主演作”といっていいのが「ちょっとマイウェイ」だったと記憶しています。
毎エピソード、シチュエーションコメディのようにいくつもの伏線が張られるのですが、エンディングですべてが繋がってオチがつく・・・というような見事な脚本でした。
また、なつみの親友カツ子役の研ナオコは本人そのままのおしゃれでお人好し、長女役の八千草薫は天然系おっとり、次女役の結城美栄子はヒステリックで口うるさく、男やもめのシェフ役の緒形拳は不器用な男、ウェイトレス役の左時枝はシニカルなオールドミス、優柔不断な料理人役は赤塚真人と秋野太作・・・というように、このドラマの出演者それぞれが見事にステレオタイプのキャラクターを演じているので、役柄と役者のブレがないという絶妙なキャスティングでありました。

1970年代の末期から1980年代というのは、一生懸命の努力や暑苦しい根性ではなく、クールな感性(シラケ世代とよばれていたような)によって個性を尊重することが、若者の主流となりつつあるターニングポイントの時代ではなかったでしょうか?
振り返ってみると・・・桃井かおりという存在は、当時以上にあの時代を象徴していて、時代の雰囲気を最も具体的に体現していたのかもしれません。
そして「ちょっとマイウェイ」というドラマは、その時代感をキャプチャーしたタイムカプセルのような気がするのです。

「ちょっとマイウェイ」
1979年10月13日~1980年3月29日
土曜日午後21時より、日本テレビ系列
スタッフ
脚本/鎌田敏夫、那須真知子、鴨居達比古、金子成人、猪又研吾、柏倉敏之、清水邦夫、他、演出/吉野洋、池田義一、雨宮望、オープニングイラスト/倉多江美
キャスト
桃井かおり(浅井なつみ)、研ナオコ(川村カツ子)、緒形拳(堀田康吉)、八千草薫(浅井朋子)、結城美栄子(大石伸江)、犬塚弘(大石定夫)、赤塚真人(大石常夫)、神田正輝(大石満)、秋野太作(米沢誠)、岸本加世子(牧野真弓)、左時枝(野村和子)、峰竜太(前橋一男)


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2010/02/12

最近、ブログの文章が長くなっています

以前から「ブログの文章が長くて読みにくい」というご意見は頂いていたのですが・・・逆行するように最近ますますブログの文章が長くなっています。

去年の書き込みと比べると、文字数は倍以上になっているかもしれません。


言い訳になってしまいますが・・・理由のひとつは、昨年12月に購入した”27インチのiMac”というのがあります。

広大なデスクトップ環境になったので、長い文章でもスクロールすることなしに読めてしまうので、自分では気づきにくかったのです。

17インチのiMacで自分のホームページを表示してみたら、文字ばかりの画面でウンザリしてしまいました。

僕のブログは、コメントの日記風でも、きれいな写真で見せるわけでもなく、基本的に”作文”なので、ついつい話が長くなってしまうようです。

今後はもうちょっと要点をまとめる努力をしていこうと思っています。


もうひとつの理由は、ホームページやブログのサイドバーにある「おかしのつぶやき」の存在です。

「おかしのつぶやき」はツイッター(twitter)というサービスと連動しています。

気づいている方がいるかもしれませんが・・・出来る限り文字制限である140文字ぴったりで”つぶやき”をしています。

ツイッターでは”2バイトの日本語”も”1バイトのアルファベット”と同じ”一文字”に数えられるので、漢字のある日本語というのは、英語などの言語に比べてより多くの情報を表現するできることになります。

コミュニケーションツールというよりも、気軽に更新することができる”ミニブログ”として活用しているので、日本語を最大限に生かそうと、文字制限いっぱいいっぱいに、つぶやくことにしたのです。

そんなわけで、僕にとってはツイッターが、一般的なブログの存在に近いのかもしれません。

日々の生活で感じたことや興味を引かれたニュースや話題については、ツイッターの方に書き込みをしてしまうので、ブログとして書く内容に対して、少々身構えてしまっていたようです。


ところで・・・ツイッターは最近爆発的な広がりをみせています。

僕自身は去年の夏頃からボチボチと利用していたのですが、ここ1、2ヶ月間で様子が激変している印象です。

特に日本人のあいだでは、ゲームコミュニティーサイトになりつつあるミクシィ(Mixi)から、ツイッターへ移動しているというのもあるのかもしれません。

このようなネットのサービスは、ある程度の限られた人数が参加しているうちはウェルカムでオープンな雰囲気なのですが、利用者が増えてくると徐々にクローズドのコミュニティーになっていく傾向というのがあるように思います。

勿論、家族内や会社内の連絡にツイッターを利用しているならば、勿論なのですが。

ツイッターもそろそろ「非公開」や「ブロック」などのフォロワーを選別/排除する機能によって、仲間内だけを集めての”村作り”をする人が増えていく段階に入っていくのでしょうか?

承認などの面倒な手続きなしで勝手にフォローできるところも、ある意味ツイッターの良さのような気がしていただけに、閉鎖的になっていくことで面白さが半減してしまいそうな気がしています。


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2010/02/10

オードリー・ヘップバーンの痛すぎる恋愛とハッピーエンドのその後~「いつも二人で」~


”オードリー・ヘップバーン”は、ジバンシーの衣装をスタイリッシュに着こなす「おしゃれ」の代名詞で、永遠の妖精のようなイメージの女優だと思います。
”ダサくて痛い女子大学生”なんて最もオードリーには似合わないように思えますが、そんな”らしからぬ”役柄を彼女が38歳の時に演じているのが「いつも二人で」という作品です。

いつも二人で」は、イギリス人夫婦のマーク(アルバート・ファニー)とジョアンナ(オードリー・ヘップバーン)の出会いから離婚寸前の倦怠期までを、フランスを南下する夏のドライブ旅行を舞台に描いています。
このルートが当時のイギリス人にとってポピュラーなドライビングコースであったかは定かではありませんが、二人はこの映画の中で繰り返し同じ道をドライブすることになるのです。
「出会いのヒッチハイクの旅」「ポンコツ車での新婚旅行」「マークの元彼女の夫婦とその娘との旅行」「倦怠期のふたり旅」「子供との家族旅行」「離婚寸前の旅」と、さまざまな時代を描いているのですが、時間軸にに沿って話が進むわけではありません。
シーンごとに時間を遡ることは映画でよく使われる手法ですが、この映画ではワンショットごとに時間を飛び越えたりして、観客は「一体、今はいつの二人?」と、迷ってしまうような作りになっています。

映画の最初のシーンは、離婚寸前の冷えきった二人の関係を表すような台詞です。
結婚式を挙げたばかりのカップルを見て・・・ジョアンナ「あの二人、あまり幸せそうには見えないわ」マーク「それはそうだ・・・結婚したばかりなんだから」
繰り返される同じルートのドライブの旅で、二人は毎回の夫婦の関係の危機にぶつかり、皮肉なハプニングで関係の修復を繰り返していきます。
二人が学生の頃、建築家の卵だったマークは女学生の合唱グループと合流するのですが、グループの中で気になっているのは地味なジョアンナ(オードリー・ヘップバーン)ではなく、若い日のジャクリーン・ビセット演じるセクシーな女子学生なのです。
しかし、ジョアンナはマークにひと目惚れしてしまいます。
ダサイ風貌(セミロングに長いスカートにカーディガンという図書館女子風?)のジョアンナですが、実は好きな男をトコトン追いかける「隠れ肉食系女子」なのです。
ジョアンナ以外の女子大学生は水疱瘡になってしまい、マークとジョアンナの二人のヒッチハイク旅行となってしまいます。
マークはハッキリとジョアンナとの二人旅を拒絶するのですが、怯むことなくジョアンナはマークにアタックを繰り返します。
ことあるごとにマークは厳しい言葉でジョアンナの傷つけても、ジョアンナは皮肉やユーモアで切り返します。
その気のない男を相手に、はしゃぐジョアンナの姿は”痛い女”です・・・しかし、結果的にジョアンナは巧みな誘導(?)で、マークに突発的ににプロポーズをさせてしまうのです。(恐るべし隠れ肉食系女子!)
ジョアンナがマークに、出会っていきなりゾッコンなのが不可解なのところではあるのですが・・・「皮肉をぶつけ合える」ほど刺激的なパートナーがマークなのです。
マークは自分本位の男ではありますが、パスポートを忘れたり、プールに落ちたり、お茶目で憎めない男です。
最後の最後には「I LOVE YOU」と言って帰ってくる可愛い男だったりもします。
だから、ジョアンナは真面目で優しい男に惹かれても、結局マークに戻ってしまうのです。
年月が経つごとにマークは建築家として成功し、ふたりの生活は裕福になっていくのですが、彼のジョアンナに対する態度はますます冷ややかになっていきます。
比例するように、ジョアンナはますます苛々した、ファッションだけにはお金をかけたドレッシーな金持ち中年女になっていきます。
オードリーが演じてきたのは「マイ・フェア・レディ」に代表されるような”少女”が男性(それも、おじさま)に磨かれて、ハッピーエンドを迎える物語が多いですが、その後は二人の人生は語られることはありませんでした。
もしかすると、マークとジョアンナのような倦怠期を迎えた普通の夫婦になっていたのかも・・・しれません。

もしも、この映画が二人の出会いの「過去」から始まって、離婚寸前の「現在」へと、時間に沿って描いていたならば、気の重くなる退屈な話だったでしょう。
しかし、この映画ではマークとジョアンナがケンカしながら走っているジャガーの後ろを走っているポンコツ車の中に、愛し合っている新婚時代の若い二人の姿があったりします。
「いつも二人で」を監督したスタンリー・ドーネンは元々は振り付け師で、ジーン・ケリーのMGMミュージカルの監督であり、オードリーらしい魅力が満載の「パリの恋人」や「シャレード」も手掛けたテンポとセンスの良さで知られた監督です。
自由自在に時間軸をバラバラにして再構築したことで、二人は「過去」も「現在」も「その間の時代」も、同時に生きているかのように映画では描かれています。
マークとジョアンナが夫婦でいることの道のりは平坦ではないれど、確かに二人で同じ道を進んでいます・・・そして、それは同じ一本道を繰り返し何度も何度も進んでいるようなものなのかもしれません。
人生に”山”や”谷”はあれど「この道は、いつか来た道」・・・ということなのです。

「いつも2人で」
原題/Two for the Road
1967年/イギリス
監督 : スタンリー・ドーネン
脚本 : フレドリック・ラファエル
出演 : オードリー・ヘプバーン、アルバート・フィニー、ジャクリーン・ビセット
音楽 : ヘンリー・マンシーニ


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2010/02/03

堕ちるところまで・・・堕ちるがいい!気の滅入る後味の悪さの恍惚感~「グロテスク」/桐野夏生著~

湊かなえの「告白」が面白かったという話をしたところ、友人Aに「だったら、桐野夏生も好きかも・・・特に”グロテスク”とか」と、奨められたことがありました。

去年、老眼鏡をつくるまで”読書家”というわけでなかった僕は、この作家についてあまり詳しくなかったのですが、”東電OL殺人事件”をヒントにした小説と聞いて、たいへん興味を持ったのでした。


”東電OL殺人事件”というのは、1997年に昼はエリートOLでありながら夜は街娼をしていた女性が、渋谷道玄坂の古アパートの一室で殺された事件のことです。

1980年代に施行された男女雇用機会均等法を適用された最初の世代で、女性の社会進出に一石を投げかける事件だったこともあって、その後も何かとメディアに取り上げられることの多い事件のひとつであります。

佐野眞一著のルポルタージュ「東電OL殺人事件」を本書の前に読んだのですが・・・これは真面目(?)に事件を追ったノンフィクションで、事件の経緯やその後の検察の捜査について書かれていました。

しかし、殺された女性が何故二重生活を送っていたか?という事件に至る背景については「墜落」というステレオタイプの視点でしか表現されていません。

僕が”東電OL殺人事件”に関心を持つ理由は、街娼をしていたエリートOL女性がどんな気持ちで毎晩仕事帰りに客引きをしていたか・・・という心理を知りたいからなのです。


桐野夏生著の「グロテスク」は、あくまでも事件にインパイアされた作者のフィクションではありますが・・・”東電OL殺人事件”の被害者の遺族の方が読んだら、卒倒してしまいそうな強烈な内容となっています。

スイス人の父と日本人の母のあいだに生まれた平凡な容姿で区役所で勤める処女の中年女の「私」、怪物的な美貌に恵まれながらも無類のセックス好きの”私”の妹の「ユリコ」、努力家で一流企業のOLでありながら街娼になっていく”私”の同級生の「和恵」、ユリコと和恵を殺した犯人としてとらえられた中国人の「チャン」・・・この4人のモノローグ、手紙、上申書、日記という形で語られていく「グロテスク」の登場人物たちの人生は、僕を奈落へ引きずり込んでいくほど不快でした。

妹ユリコの美貌に嫌悪と憧れを感じ続けて必要以上に美しさに執着する「私」は、容姿も頭も平凡で地味な存在でありながら、次第に他者に対する意地悪さを磨き、心底腐った人間性を築いていく・・・この物語の中心的な”語りべ”です。

怪物的な美貌をもつ「ユリコ」は男達を魅了しながらも、若さを失うとともに化け物のような街娼へと変貌していき、行きずりの客にいつしか殺される運命を受け入れていきます。

容姿や経済的な格差を努力で克服して一流企業のOLになる「和恵」は、努力が空回りばかりして身体を買われることでしか女としての自我とプライドを保てなくなっていくのです。


物語はまず、Q学園というステータスのある私立の高校を舞台に「私」「和恵」と、後にカルト宗教にはまる優等生の「ミツル」、母の死後転校生として編入してくる私の妹の「ユリコ」、そしてユリコの同級生でありながら売春斡旋する同性愛者の「高志」の過去の因縁が語られます。

中国人「チャン」によって「ユリコ」が殺され、その後「和恵」が殺されることにより、二人の女性を歩んだ絶望的な人生観が徐々に明らかになるとともに、それを取り巻く「私」「ミツル」「高志」の心理も明らかになっていくのですが・・・すべての登場人物たちの内面は、ヘドの出るような悪意に満ち溢れているのです。

美しい者への魅了と差別、努力に対しての軽蔑と無評価、歪んだ自己の正当化と主張・・・日常で無意識にしてしまう小さな意地悪は、繰り返されることで誰かの人間性までも歪ませてしまうのでしょうか?

現実は小説のように内層心理が明らかにならないだけで、実際には心の奥底に”グロテスク”な怪物が潜んでいるのかもしれないと思えてしまいます。

如何にして道玄坂の街娼へと堕ちていったかを語った「和恵」の日記と「私」がその後の人生をどう歩んでいくのかのエンディングには、思わず深いため息が出てしまい、たびたび本を閉じたくなるほど気が滅入りました。

目を覆いたくなるような登場人物たちの行く末に”どん底”に突き落とされるながらも、地獄を垣間みる恍惚感も感じてしまう・・・「グロテスク」は不思議で巧みな小説でした。


「グロテスク」読後の奈落から、もっと底へ堕ちていきたい・・・本当の”どん底”への憧れは強くなるばかりです。



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