2011/02/24

男の娘(こ)とマッチョなゲイは背中合わせの紙一重・・・理想の女性像を追求すること、男らしさを追求すること



「女装」と言っても「女装」をする理由というのは、人それぞれであります。
ゲイだったら「女装する気持ちは分かるでしょ~!」って思われてしまうのかもしれませんが・・・ボク自身は「女装」をしたいという願望「ゼロ」・・・他人がやっているのは面白がりますが、自分がやることには関心はありません。
しかし、あくまでも部外者として「女装」というモノを見ると、大きく分けてつの「女装」の形があるような気がするのです。

性同一性障害(障害というのには、かなり抵抗がありますが)の男性が、女性になる段階としての「女装」というのは、第三者的にみて「女装」なのであって、本人的には自らの心の性に従っているだけのこと・・・正確には「女装」ではないのかもしれません。
マスコミなどに登場する性同一障害の方々って、女性としても外見的には違和感がない人ばかりだけど・・・世の中には、そう上手いこと「キレイ」に女性っぽくなれる人ばかりじゃないと思うのです。
性同一障害と診断されたにも関わらず、何をやっても女性っぽくなれない人はどうしたら良いのでしょう?
性転換手術だけでなく、高い技術の美容整形によって、誰もが「キレイ」な女性になれれば良いのですが・・・。
外見的に女性っぽいなら世間的には受け入れられるようにはなったものの・・・「美/醜」によって、かなり厳しい差別があるような気がします。



ゲイの「女装」には「ドラッグクィーン」と呼ばれるようなエンターテーメントの要素が高いように思います。
「女性」という性別になりたいというのではなく、一種の「コスプレ」というか「ものまね」のような。
カリスマ性を持ったスターを真似しようとすることが多いから、やや”キッチュなテイスト”な偏りがち・・・これは、世界的に共通するゲイの嗜好のようであります。
ただ、ゲイという存在で「女装」をひと括りにはできません・・・ゲイの「女装」には、他にも理由がありそうなんです。
ひとつは・・・性同一障害となるほど自分の心の中では女性であるという意識を持つに至らないままゲイという自己認識でいる人・・・普段は男が好きなゲイとして「男性」で、パートタイムで「女装」するタイプ。
精神的には「女性」という意識も強いので・・・最近では「おネエ」とカテゴライズされることが多いゲイで「女性の心も持っている!」ということになっています。
普段から女性っぽい仕草をしていること殆どですが・・・致命的なほど男っぽく生まれてしまった場合には、下着だけ女性モノでエッチのときだけ「女」になってしまうっていう輩もいたりすます。
ゲイの中には「ノンケ好き」という人もいて、男を引っ掛けるために「女装」をしているゲイというのもいるのです。
性格的には、どちらかというと男っぽいというか、肉食系なんだけど・・・好きなタイプの条件が「ノンケ/ストレート」という面倒くさい趣味なので、男の姿のままでいたら絶対にデキません。
そこで「女装」をしているわけですが、これはある意味危険も伴う行為でありまして・・・あまり上手に「女装」しているとバレた場合に相手の男が逆上することがあるみたいです。
(友人Kの実話)
この系統の「女装」の人は、ホルモン注入などで胸は大きくすることはあるようですが・・・性転換手術までは至りません。
服を脱いだらオチンチンの付いているゲイの女装を相手する「ノンケ」が、本当の意味で「ノンケ」かどうかというのは微妙なところでありまして・・・ノンケと言いつつ、ゲイになる手前の段階なのかもしれませんし。
どっちが騙しているのか、騙されているのか、分からなくなってきます。


「女装」という行為の不可解さは・・・ノンケ/ストレートの男性の中にも愛好者がいるということでしょう
ひと昔ほど前であれば・・・社会的な地位のあるおじさんがコッソリと秘密の女装クラブとかでやってんじゃないの?という・・・ある意味、特別なものだったような気がします。
それに「女装」で目指す方向性も、性同一障害者のようなリアルさでもなく、ゲイのようなキッチュさでもなく、女性像としては極端に「古臭い」イメージで、いまいち「化粧」も「カツラ」も詰めが甘過ぎるところがあるのです。
ハッキリ言って、汚い「女装」なので、うっとりしているのは本人だけ・・・最近のオープンな世間の空気に便乗して、銀座の街とかに出没して、白い目で見れても気付かないという強者もいるみたいで・・・。
ボク自身は理解に苦しむのですが・・・ノンケの「女装」には自分好みの女性像というのが投影されているようで、そのために年配の方が「女装」をすると時代的に自分の若いに遡ってしまうために古臭くなってしまうのでしょう。


しかし・・・近年のノンケ「女装」は年齢的にかなり若くなっているようで、完成度が随分と高くなってきているようなのです!
コスプレの延長線上にある「女装」であるということ。
そして「女好き」が高じて、自分自身が「好みの女性になりたい!」うということなのですが・・・極端な場合、豊胸手術までして女性の肉体まで持とうとする「女好き」のノンケ(ただ、この場合ノンケと言えるのだろうか?)というのもいるらしいのです。
「女好き」だから「女の気持ちも分かりたい!」ということで、セックスに於いても「女性の立場」を経験したくて「犯されたい!」とまで求めてしまうケースもあるとか聞いたことがあります。
ただ、男性の姿をした相手とはセックス出来ないので「女装」した男性(女装でオチンチン付!)にお尻を犯さるということになるようなのですが・・・「女装」しているにも関わらず男を犯したいって「そんな奇特な人っているの?」って思ってしまいます。
いずれにしても「女好き」がリピドーの根底にあるわけです。
ノンケの「女装」が目指す理想の「女装像」が「男勝りの肉食系女子」であるはずもなく・・・やっぱり本物の女性からすると、フリフリドレスの「ぶりっ子」の女性のタイプであることが多いと思われます。
結局のところ・・・自分の理想の女性像に近づこうとするということは、ひと昔前におじさんがやっていたセーラー服にお下げ髪の「女装」と、基本的に根底にある心理は変わらないのかもしれません。

「男らしい」は、もはや女性にモテる資質ではなく、ルックスも、ジャニーズ系、韓流スター、ホスト系と「キレイな塩系(しょうゆより、さらにあっさり)男子」・・・内面的にも女性とどれだけ「共感出来るか?」が問われる時代です。
究極の「女好き」の完成型が「女装」・・・女性は「レズビアン」になったような気持ちで「女装男子/男の娘(こ)」を受け入れるしかなくなってしまうかもしれません。


「男らしさ」は、消滅してしまうのでしょうか・・・???

いいえ!

ジムに通って男らしい筋肉質の大きなカラダ(それもバルク系、ガチムチ系)を目指したり、短髪に髭という「ひと昔の男臭いイメージ」を求めるのは「ゲイ」の真骨頂!・・・「男好き」だからこそ、自分の理想とする「男性」を自分自身に対して追求してしまうのであります。

ノンケの「女装」の「男の娘(こ)」とマッチョを目指すゲイの「男らしさ」の追求は、どちらも性の対象として求める理想像に自分自身が近づくこと・・・もしかすると背中合わせの紙一重なのかもしれません。





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2011/02/17

アメリカ版(クロエ・グレース・モリッツ/ヒット・ガール)とスウェーデン版の大きな違い・・・吸血鬼の「小さな恋のメロディ」ではなく、エドガーとアランの物語?~「ぼくのエリ 200歳の少女」「モールス/LET ME IN」~



スウェーデンのホラー作家ヨン・アイヴィデ・リンドクヴェストによる小説「モールス」を原作にしたスウェーデン映画「ぼくのエリ 200歳の少女」とアメリカ映画「モールス(原題/LET ME IN)は、どちらも同じ小説を原作としているので物語としては殆ど同じなのですが・・・この2作には大きな違いがあります。
スウェーデン版は2008年公開、アメリカ版は2010年公開で、アメリカ版は「リメイク」と報道されているようなのですが、アメリカ版の監督マーク・リーヴスによるとスウェーデン版の公開前にすでに製作に入っていたので、あくまでも別企画で製作された映画ということです。
ただ、同じシーンが同じような構図であったりするので、どちらも原作を忠実に映像化した・・・ということなのかもしれません。
スウェーデン版は去年(2010年)に日本で劇場公開され、現在すでにDVD発売/レンタル開始済みです。
アメリカ版は日本では未公開・・・アメリカ公開時に大コケしたので日本での劇場公開は難しいと思われます。
ただ「キック・アス」でロリコン達を萌えさせた「ヒット・ガール/クロエ・グレース・モリッツ」人気にあやかって公開!という可能性もあるかもしれません。

ここから「ぼくエリ」のネタバレに注意です。


まず、スウェーデン版については「200歳の少女」という間違った日本語のタイトルと、物語の根幹に関わる部分を修正している問題に、触れないわけにはいきません。
エリが吸血鬼という設定をバラしている200歳という年齢をタイトルに入れているのが問題ではなくて・・・エリは「少女ではない」ということなのです。
映画の中で「私は女の子じゃない」という台詞を、エリは繰り返し言っているのですが、日本で公開された修正版を観る限り「吸血鬼のエリは、人間より長く生きているから、見た目は12歳の少女っぽくても、もう女の子ではないんだよね」という風にしか解釈できません。
ボク自身も日本で公開された修正版を観たとき、そう思いました。
しかし無修正版では、エリがシャワーを浴びた後に着替えるシーンで、エリの股間が映され・・・そこには少女にあるはずの「性器」ではなく「去勢された痕」があるのです。


エリは、少女ではなくて「去勢された少年」の吸血鬼・・・だからこそ「女の子じゃない」と訴えていた真意が、観客にここで理解できるのであります。
しかし・・・股間がボカシ修正されてしまったことで、日本の観客には「エリが少年であったこと」は、まったく伝わらなくなってしまったのです。
(それは、それで映画としては辻褄があったように見えるのもスゴイ)
さらに問題なのは・・・サブタイトルを、わざわざ「少女」とすることで、修正によって本来の設定が伝わらなくなってしまったという事実さえも「隠蔽」されてしまっていることであります。

さて、アメリカ版「モールスの方は、どうなっているのでしょう?
映画製作のプロダクションが大規模になったことで、残酷描写のビジュアルもパワーアップ・・・エクソシストのリンダ・ブレア並にクロエちゃんが恐ろしい形相に変貌してしまいます。
また、連続殺人を追う刑事が映画の冒頭から出現して、ダークなミステリーサスペンス色も強くなっている感じです。
「静寂さ」に切なさとサスペンスを感じさせたスウェーデン版とは違い、アメリカ版は80年代のヒット曲で時代背景を強調し、怖いシーンでは怖い音楽が流れるというハリウッドらしい演出にはなっています。
詳しく説明をしないスウェーデン版と比べて、全体的に時代設定や人間関係を分かりやすく描いているアメリカ版ではありますが・・・それは、観る人のお好み次第という感じです。
しかし「私は女の子じゃない」という台詞はあるのですが・・・去勢された吸血鬼という設定ではなく、クロエ・グレース・モリッツ演じるアビー(エリ)は、あくまでも「少女」という設定なのです。
この「違い」は同じ物語を語りながら、まったく違う映画になっていると言えるほどでありますが・・・アメリカ版の「LET ME IN」は、少年/オーエンと少女/アビーの恋の物語(吸血鬼版「小さな恋のメロディ」?)を目指しているところがあって、これはこれで「あり」ではあります。
ただ、スプラッター的な描写により観客であるティーンエイジャーが観ることのできない映画になってしまったということが「モールス」の、アメリカでの興行的な失敗の原因となった”不幸”でありました。

さて・・・スウェーデン版の「ぼくのエリ」には「同性愛」ということで、もうひとつ伏線があると勝手に思っています。
オスカーが父親の家を訪ねてきた時に、急に訪ねてきた髭面の男性というのは、一体何者だったのでしょう?
原作によると、オスカーの父親はアル中で酒を飲むと人格が変わってしまうということなので、単なる「飲み仲間」ということらしいのですが・・・どこかしら不自然な態度で見つめ合って無言の男二人というのは妙です。
オスカーの父親役を演じる役者さんは、メンズモデルっぽいルックスのハンサム・・・世間一般的なイメージとしてゲイといって違和感のないタイプであります。


ボクとしては、髭面の友人は「父親のボーイフレンド」と思いたい!
だからこそ、オスカーは彼の登場で急に居心地が悪くなり、ヒッチハイクをしてでも母親のいる自宅へ帰ったのではないでしょうか?
離婚の原因が父親の同性愛であったならば、母親の嫌悪感が、より納得できるような気がするのですが・・・。
いずれにしても、オスカーは真実(吸血鬼というだけでなく、男の子であったということ)を知っり、その運命を覚悟の上に、エリを受け入れます。
故に「ぼくのエリ」は堂々たる「ボーイズラブ」ということになるのであります!
(何故、日本であえて”ボーイズラブを前面に打ち出さなかったのか不思議です)

さて「吸血鬼」「ボーイズラブ」とくれば、思い出してしまうのが、萩尾望都先生の「ポーの一族」ではないでしょうか?

エリがエドガーで・・・オスカーがアラン。

ただ、オスカーはアランのように吸血鬼になって、エリと共に永遠のときを生きていくわけではありません。
エリにとってオスカーはどういう存在となるのでしょう?
それは、1980年代初頭という時代背景が、切ない未来を示しているような気がします。
エリと行動を共にしていた父親のような男性というのは、エリを愛している男であることは明らかなのですが・・・いつからエリと生活を共にしているかなどの経緯はよく分かりません。
アメリカ版では、アビー(エリ)とこの男が同じ年齢ぐらいで一緒に写っている写真をオーエン(オスカー)が見つけるシーンがあり、アビー(エリ)とオーエン(オスカー)のこれれからの未来を暗示しているようなのですが・・・。
原作では、この男は「ペドフェリア」という設定で、その性癖のためにエリに献身的に仕えているということらしいのですが、去勢した少年を崇拝する中年男なんて・・・あまりにもエグ過ぎます!
スウェーデン版、アメリカ版、共に映画では、エリのために”無償の愛”を捧げる中年男として描かれているのです。
彼はオスカーと同じぐらいの年齢でエリと出会ったと、アメリカ版の設定の方が物語としては、より切なく美しいような気がします。
連続殺人まで犯してエリに生き血を捧げ続け・・・いつしか、彼はエリの父親のような年齢になってしまったという運命。
犯罪で捕まりそうになると、身元がバレないように自らの顔に硫酸をかけるという壮絶さ!
そして、最期はエリに自分の生き血を吸わせて・・・自殺。
この映画の時代設定から約30年後の現在(2010年)・・・オスカーは彼と同じような中年男となっているはずなのですから。
永遠のときを生きる「虚しさ」よりも、いつまでも出会った頃のままの姿でいる「少女/少年」と共に過ごしながら自分だけ年老いていくことの方が「残酷」なことかもしれません。

あぁ,なんとも皮肉な愛の物語・・・(原作にはないボクの勝手な妄想で、なおさら!)胸が痛みます。


「ぼくのエリ 200歳の少女」
原題/Låt den rätte komma in
2008年/スウェーデン
監督 : トーマス・アルフレッドソン
脚本 : ヨン・アイヴィディ・リンドクヴェスト
出演 : コーレ・ヘーデブラント、リーナ・レアンデション、ベール・ラグナー


「モールス」
原題/Let Me In
2010年/アメリカ
監督/脚本 : マット・リーヴス
出演    : コディ・スミット・マクフィー、クロエ・グレース・モリッツ、リチャード・ジェキンス
2011年8月5日全国公開



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2011/02/13

悪趣味なブラックコメディと呼ばないで!・・・「家庭」という閉じられた狂気の世界~「籠の中の乙女/Dogtooth(ドッグトゥース)」~



子供の頃、同級生の家に遊びにいった際、その家独特のルールのようなものがあって困惑したことがありました。
自分の家では禁止されていることが、ともだちの家では何も問題のないことだったり、逆に普段自分の家で平気にしていることが、してはいけないような空気に感じたのものです。

不幸なケースを除いて、子供は自分の親の家で育てられることが殆ど・・・良い悪いは別として親の考え方というのは、それぞれの家庭内のルールに反映されているはずでしょう。
我が家では、勝手にテレビを観ることは出来なかったし(勿論、親が観せたくないテレビ番組は観ることは出来ない)、好き嫌いなく残さず出されたモノは全部食べることが当たり前でありました。
ただ、ある程度の年齢になってくると、同級生の家庭の事情も知ることになって「なんとかちゃんの家では食事のときでもテレビ観れるんだって!」と、訴えるようになり、徐々に親が決めた家庭内のルールも崩れていったのでありました。
ただ、生まれ育った家庭によって倫理的な感性は築かれてしまうわけで・・・大人になってから変わろうとしても、結構難しいものだったりします。
「育て方の方針」ということであれば、誰もアレコレ意見することは、なかなか出来ません。
「ウチの教育方針ですから」と言われてしまえば、それまで。
「家庭」というのは最小単位の「国」のようなものであります。
子供の身に危険が及ぶような場合以外では、第三者が介入することが難しいのかもしれません。

今年のアカデミー外国語映画賞にノミネートされた作品のひとつ「籠の中の乙女/Dogtooth(ドッグトゥース)」は、ギリシャの映画監督ヨルゴス・ランティモスによる奇妙なホームドラマです。
ギリシャ映画のように普段あまり観る機会のない国の映画が高く評価されると、政治的なメッセージが隠されているのではと思い込みがち。
 本作も、独裁的に統治されている国家を非難しているという解釈も出来そうな気もしますが・・・監督自身のコメントによると、結婚した友人に「結婚なんて意味ない」的な発言をしてひんしゅくをかった体験から、家族がバラバラになることを恐れて、過剰に家族を守ろうとする父親の姿を描きたかったととのこと・・・ただ、それにしては、物凄く変な映画でした。


舞台はアテネ郊外のプールと広大な庭のある広い屋敷・・・そこに父親、母親と10代後半ぐらいの子供3人(男の子と女の子ふたり)が暮らしています。
屋敷の敷地外に出ることを許されているのは、仕事をしている父親だけで・・・母親と子供たちは外に出ることは出来ません。
学校で教えられるダーウィンの進化論などが聖書の教え(天地創造)に反する教育であるという理由から、アメリカの保守的な地域ではキリスト教原理主義者の親が「ホームスクーリング」と呼ばれる自宅教育をすることがあるのですが・・・ちょっと、そんな状況を連想させる設定ではあります。
ただ、この映画の父親は自分の宗教観とか、思想的な理由から子供たちを隔離しているわけではなく、知識や情報のコントロールをして家族(ある意味、母親も)を支配することが目的という感じで・・・レイ・ブラッドベリ原作で萩尾望都が漫画化した「びっくり箱」という短編を思い出したりもしました。(テイストはかなり違いますが)

子供たちはホームスクーリングで両親から教育を受けているのですが・・・それが変なのであります。
例えば「海」は「革張りのアームチェア」、「高速道路」は「強い風」、「遠足」は「床に使われる固耐性のある素材」、「カービン銃」は「美しい白い鳥」など・・・家の外が関係するような不都合な言葉は、間違った意味を教え込んで頭の中から封じてしまうということのようです。
家にはテレビはあるのですが、観ることが出来るのはビデオカメラで撮影された家族の映像。
食料品や飲料水のラベルは全部はぎ取ってから家に持ち帰るという徹底ぶり。
子供たちに与えられる情報というのは父親(そして母親の共謀)によってコントロールされているわけであります。
父親は、世界(屋敷の外)は危険な場所で「ネコ」という人間を襲う恐ろしい動物がいると教えます。
そんなネコから身を守るために、犬のように吠える練習をする家族の姿はなんとも滑稽であります。

そんな環境の中・・・三人の子供たちは、鬱屈した精神状態であるのは当然と言えるでしょう。
子供たちは、意味のない暴力と、狂気じみたダンスだけが、ストレスを発散する手段であるようです。
娘達は、人形を切り刻みながら叫んだり、麻酔薬を吸って気絶して遊んだり、兄にいきなりナイフで斬りつけたりという意味不明の行動ばかりやっています。
息子は、屋敷に忍び込んできたネコを植木ばさみで切り刻んで惨殺してしてしまうし、たまに空から落ちてくると信じている飛行機に妙な執着を持っていたりします。

ここからネタバレを含みます。

息子の性的欲求を満たすために、父親は仕事場から年増のクリスティーナという女性を家に連れてきて、セックスの相手をさせているのですが・・・まだ若い息子にしてみれば、そんな相手では満足出来ません。
ただクリスティーナは、息子だけでなく娘たちにも近づいてプレゼントと引き換えに、自分の股間を舐めさせるという妙な「取引」をしています。
娘2人はレズっぽいことしているし、息子も妹とセックスしてしまうし、近親相姦に違和感もないのが、何とも不気味さを感じさせるのです。
結果的に、クリスティーナという外部の人間の存在が、父親の作り上げた隔離された世界を崩壊させ、常識のない無垢な子供たちを変化させていきます。
映画のタイトルになっている「ドッグトゥース(犬歯)」というのは、犬歯が抜けたら外の世界に出られるという父親の教えから。
長女は自分でダンベルで顔を殴って犬歯を抜いて、車のトランクに入って家から脱出することになるんだけど、結局、トランクからは出られないまま。
唐突に映画が終わるので、意味”ありげ”のような、”ない”ような・・・どうにも解釈のしようのない、これまた不思議な終わり方でありました。

この映画で描かれる家族は非常に極端ではありますが・・・多かれ少なかれ、ある家庭内の常識が、他人からしてみれば非常識で滑稽なんてことはよくあります。
「家族って何?」っていうオーソドックスな映画の主題を独特のスタイルとセンスで表現した映画でありました。
残念なのは、日本で劇場公開されたとしても、修正されてしまうシーンがあること・・・作品が意図していないところで滑稽になってしまいそうです。


「籠の中の乙女」
原題/Kynodontas(Dogtooth)
2009年/ギリシャ
監督/脚本 : ヨルゴス・ランティモス
出演    : クリストス・ステルギオグル、ミッシェル・ヴァレイ、アゲリキ・パプーリァ、マリア・ツォニ、クリストス・パサリス、アンナ・カライヅドウ
2012年8月18日より日本公開



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2011/02/10

歳をとると「まるくなる」のではなく「濃くなる」のかもしれない・・・



若い頃、歳をとると人間というのは「まるくなる」と思っていたんだけど、実際に自分が歳をとってみると・・・そんなに「まるくなった」という感覚はないものです。

ボクは子供の頃から「個性的な子ね~」と事あるごとに言われて育ってきたのですが・・・「個性的」というのはモノの言いようで、感じたままの感情を露にするような子供ということなのでした。
実家を離れてひとり留学したのは18歳の時、日常会話もままならないレベルの英語しか話せなかったこともあって、授業以外は同じ英語学校に通っていた日本人留学生と行動を共にしていました。
1981年当時は、東海岸のニューヨークに英語留学する日本人というのも多くなく、ボク以外の日本人は日本で大学を卒業した23~4歳の人という「お兄さん」「お姉さん」ばかり・・・その中でもボクはダントツに若かったのでした。
初めての一人暮らし、それも海外ということもあっって、まだまだ子供だったボクは常に情緒は不安定・・・とにかく周りのお兄さんやお姉さんは、どのように接してあげれば良いのか随分と困惑していたそうです。
自分でも自分の感情をコントロールしきれないので、何かをきっかけに急に怒りだして口を利かなくなるなんてことは日常茶飯事でした。
それでも、ホームシックになることはなく、何かが辛くても、絶対に涙を流すことは一度もありませんでした。
振り返ってみれば・・・感情はギンギンに尖っていて、メチャクチャ気を張っていたというところなのですが、本人には、何が何だか分からないものなのであります。
そんな風だった若い時のボクの願いのひとつは、早く歳をとって「まるくなりたい」なのでした。

ただ、気付いてみれば40歳を過ぎ・・・あれよあれよと50の大台も見えてきたところで、ふと「まるくなる」って一体、何なんだろうと考えたわけです。
世間一般的には「怒りにくくなった」とか「人を許せるようになった」とか、人間的な器が大きくなったということを差しているのだと思います。
確かに、20歳ぐらいまでのボクを知っている友人からすれば、確かに、そういう意味で「まるくなる」という印象は与えるのかもしれません。
しかし、内面の感情というものは、実はそれほど大きく変わっているわけでもないのです。
ムカつくことも、悲しいことも、許せないことも・・・同じ。
何が変わったかと言えば、その感情を表面にモロ出すか、出さないか(今でも顔に出ているかもしれませんが・・・)の違いというだけなのかもしれません。
自分の感じている感情の対処方法を学んだだけで、心の中の感情は何も変わっていないのです。
時々、自分がまだ子供の時に感じた気持ちと、まったく同じ感情を持っている”今の自分”に驚くことがあります。
「人間は変われる」と言うけれど・・・「人間は変わらない」というのも正しいのです。

20代の頃までは、友人とも口喧嘩をしたり、討論をした記憶がありますが・・・最近は、そんなにムキになることもなくなりました。
それは、ある意味「大人の付き合い方」というのを心得ているだけなのかもしれません。
相手をいたずらに傷つけることもないし、後日、謝らなくてはならないような失言もしなくて済みます。
表面上はお互いに感情を高ぶらせることもなく受け流して、正面衝突しないような技は身につけてはいるのですが・・・本当の感情というのは正直なもので、頑固というか、融通が利かなくなるというか、結局のところ、誰も自分を曲げずに何も解決しないなんてことも、よく起きるのです。
結局、歳とったからといって「まるくなる」わけではなく、徐々に人はますますその人らしさを増して「濃くなる」という方が正しいような気がします。
濃くなった者同志が、お互いの濃度をそのままに、体よく関わる手段として「突き詰めない」「結論を求めない」という適度な距離感を保つということが「まるくなる」ように見えるのかもしれません。

若い頃は「本音」をぶつけ合うことに意味があると思っていたけど・・・歳をとってくると何が何でも守りたい「大切なこと」なんていうのも、それほど沢山あるわけではないことにも気付いたりします。
それでも、やっぱりボクは「まるくなる」ことはなく・・・ますます漠然とした自分が「濃くなる」ことを楽しんで生きているのです。

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2011/02/05

もうひとつのゴールデングローグ作品賞受賞作・・・男前アネット・ベニングと尻軽ジュリアン・ムーアのビアンカップルの”アメリカンファミリー”のかたち~「キッズ・オールライト」~



先日、発表された第68回ゴールデングローグ賞作品賞受賞作・・・といえば作品賞、監督賞、脚本賞、オリジナル作曲賞の4部門を獲得した「ソーシャル・ネットワーク」が話題でありますが、ゴールデングローブ賞映画部門(テレビドラマ部門というのもある)の作品賞、主演女優賞、主演男優賞というのは、ドラマ部門とコメディ・ミュージカル部門と分かれているのです。
コメディ・ミュージカル部門で作品賞と主演女優賞を受賞したのが、日本での劇場公開もゴールデンウィークに決定した「キッズ・オールライト/原題 The Kids Are All RIght」であります。
すでにアメリカではDVD/Blu-rayが発売されているので、アメリカ版を観ました。

アネット・ベニングジュリアン・ムーア扮するレズビアンカップルが、同じドナーの精子によって、それぞれ子供をもうけた家庭のはなしなのですが・・・まず日本では”ありえない”状況でしょう。
精子バンクに登録すること自体が、医学生ならともかく・・・一般的にはまずないことだから。
しかし1980年代後半には、アメリカの有名大学(プレッピースクールと呼ばれるような)に通う男子学生が精子バンクに登録しているというのは”、それほどありえないこと”ではなかったという記憶があります。
当時は、精子提供者の匿名保持が原則だったので、お小遣い稼ぎに提供する男子大学生っていうのがいたようです。
提供者の容姿、人種、知能指数などによって価格のランクづけされているというのが違和感を感じますが・・・どうせ生むなら「見た目の良い」「頭のいい」「自分と同じ人種」の子種が欲しいという女性がいるのも理解出来ます。
ただ、精子を条件だけで選別というのは、人種差別に繋がる問題を含んでしまうことは否めませんが・・・この映画は、そういう倫理的な問題を描こうとしているわけではありません。

「キッズ・オールライト」では、レズビアンカップルと18歳の娘と15歳の息子の4人家族を、普通のアメリカンファミリーのかたちとして描いています。
ゲイやレズビアンのカップルに育てられている子供なんて「さすがにアメリカでも特殊なのでは?」と思われるかもしれませんが・・・カリフォルニアやニューヨークでは、結構普通に存在しているのです。
ボクの知り合いでも・・・ゲイの父親と父親のパートナーに育てられた友人というのもいたし(代理母ではなく、以前彼の父親は女性と結婚していて養育権を持っていた)、海外から子供をアダプトしたレズビアンカップルというのもいました。
ゲイカップルの場合には、自らが精子提供者となって、妊娠して生んでくれる女性を見つけるということになるわけですが・・・・ふたりの精子を混ぜて、血縁関係のある父親がどちらかハッキリさせずに育てるということもあると聞いたことがあります。
ただ、そう簡単に子供を生む”だけ”の女性を見つけるというのは難しいようだし、実際に出産してから子供を手放してくれなかったりと・・・トラブルになることもあるようです。
レズビアンカップルの場合には精子バンクで精子を調達出来れば、自分で妊娠して生めば良いので、ゲイカップルよりも自分と血のつながった子供を持つことは敷居が低いのかもしれません。

子供が18歳になると精子提供者である父親と会う権利があるという法律があるのですが・・・これは、これでトラブルになるという話を聞いたことがあります。
元々、匿名保持を条件に精子を提供している場合が殆どなので、会ったこともない女性が自分の精子で生んだ子供がいきなり目の前に現れて「あなたの子供です」と訴えられても愛情もひったったくれもないということはあるようで・・・、何らかの繋がりや自己のルーツを求める子供にとって、厳しい現実を直視しなければならないこともあるということなのです。
「キッズ・オールライト」のように、精子提供者の父親と子供達が良い関係を結べるというのは、現実的には稀なことなのなのかもしれません。
その上、その父親と母親のひとりであるジュリアン・ムーアが肉体関係を持ってしまうのですから・・・展開としては、かなりぶっ飛んでいます。
同じ同性愛者でもゲイとレズビアンというのは違うのかもしれませんが・・・何十年もゲイとして同性結婚をしていた男性が、50歳を過ぎて女性と関係を持つというのは非常に考えにくいです。
ただ、この映画はレズビアンカップルの生態描くことを目的とした”同性愛映画”ではなく、また精子提供者の精子を使って同性愛カップルが子供を持つことの問題提起でもなく、アメリカの新しい「家族」のかたちを描いている映画なので、生物学的な父親という存在が現れることによって起こるレズビアン家庭の危機を描くドラマには必然なのでした。

下手すると重くなりそうなテーマをコメディとして成立させているのは、父親役的な存在であるニック演じるアネット・ベニングのクールでシニカルな演技かもしれません。
シリアスさとコメディが紙一重という感じで・・・脚本のサブテキストを見事に表現しています。
ニックはレズビアンだけど保守的・・・ある意味、古臭いタイプの父親のような女性なのですが、その分家族を守ろうとする母性愛も大きくて、良くも悪くも男前な家長といえる存在です。
ニックは、ジュリアン・ムーアの演じるジュールスには「専業主婦」のように家庭を守って欲しいのですが・・・ジュールスはカリフォルニアによくいそうな元サーファーガールで落ち着かない感じであります。
あれこれ違う仕事にチェレンジしても結局成功していな様子・・・これまた、同性カップルにありがちな片方がもう片方に経済的にパートナーに依存してしまいがちという問題を絶妙に描かれています。
精子提供者の父親ポールを演じるマーク・ラファロは、若いガールフレンドと遊んでバイクを乗り回すセクシーで自由奔放な中年男・・・子供たちやジュールスが惹かれてしまうというのも、なんとなく納得できてしまうのであります。
ポールの出現によって、ニックを家長とする一家の危機となるわけですが・・・最後はタイトル通り「子供たちは大丈夫」というエンディングとなります。
実は、リア・チェロデンコ監督自身も、レズビアンで精子バンクを利用して子供をもうけたそうで、彼女自身のリアルな体験が生かされているのでしょう。

「子供を育ててファミリーを築くことと、親のセクシャリティーというのは関係ないよね!」

・・・という当たり前のことを改めて気付かせてくれるのです。

「キッズ・オールライト」
原題/The Kids Are All Right
2010年/アメリカ
監督 : リサ・チェロデンコ
脚本 : リサ・チェロデンコ、スチュアート・ブルムバーグ
出演 : アネット・ベニング、ジュリアン・ムーア、マーク・ラファロ、ミア・ワシコウスカ、ジョシュ・ハッチャーソン


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