2012/12/30

男同士のバディを卒業して一生の伴侶として女性を選ぶことで一人前の男になる・・・”男性向け恋愛映画”による、ある洗脳~「テッド/ted」~



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日本では、それほどポピュラーな映画のジャンルないんだけど、アメリカでは盛んに制作されているのが「男性向け恋愛映画」・・・といっても、ブロンドのおねえちゃんが脱ぐだけのセクシー映画というのではなく、男性目線で楽しめる恋愛映画というのでもなく、恋愛下手な男性に「どのように恋愛したら良いのか」をレクチャーするような映画であります。

いつまでも大人になりきれず男同士でつるんでばかりいる男性が、親友(バディ)たちとの友情から卒業して、女性を伴侶として選択して成熟した大人の男へと成長していくというのが王道のパターンであります。下品なエロ満載なのは、あくまでも男性客相手だから。「無ケーカクの命中男/ノックドアップ」「40歳の童貞男」「40男のバージンロード」や、グレッグ・モットーラ監督作品の「スーパーバッド 童貞ウォーズ」「アドベンチャーランドへようこそ」などが、この手のジャンルの作品としてあてはまるかもしれません。


「テッド/ted」は、ネタバレ気味に”ひと言”で言ってしまうば・・・主人公のジョン(マーク・ウォールバーグ)が、親友のテディベアのテッド(声/セス・マクファーレン)とのバディの関係を卒業して、4年間付き合ってきた恋人ロニー(ミラ・クニス)を人生の伴侶として選んで大人の男に成長するお話。日本では「世界一ダメなテディベア」というコピーで、テッドの可愛らしさを前面に押した宣伝をしていますが・・・うっかりデートで観に行ったりしたら、後悔してしまいそうなほど、実はかなりのブラックジョークと下品な下ネタ満載の一作であります。

いじめられっ子で友達のいなかったジョンが、クリスマスプレゼントに受け取ったテディベアのテッドが、永遠の友達になるように祈ったところ、魂が宿ってしまうというというファンタジーな設定であるのですが・・・27年後(ジョンが35歳)には、テディベアのテッドも同じように年を取って”おっさん”になっているのであります。このテディベアのテッドというキャラクターの立ち位置は「宇宙人ポール」のポールっぽい感じで・・・ボクの観た”アンレーテッド・バージョン”は、その過激さが一線を越えていて頭を抱えてしまいそうになることもしばしばでありました。見た目は”かわいらしいテディベア”でありながら、内面はどうしようもない”エロ親父”と化したテッドは、ある意味、反則的にチャーミングであります。


本作が、あくまでも「男性向け恋愛映画」なのは・・・ジョンの恋人のロニーにしても、スーパーマーケットのアルバイト先で知り合ったレジ係のテッドのガールフレンドのタミ・リン(ジェシカ・バース)にしても、男にとって都合のいい女としてしか描かれていないところであります。まぁ・・・スーパーマーケットの倉庫で下着を足首まで下ろして、テディベアとエッチしてしまうようなタミ・リンに、リアルな女性像を求めることが、所詮、無理なことなのかもしれませんが。また、マーク・ウォールバーグが、元”いじらめられっ子”で、いまだに「フラッシュゴードン」に夢中な”オタク”というのも、正直ハマっていない感じ・・・なにはともあれ、テッドの可愛らしさと下品さが、本作の魅力を担っている作品であることには間違いありません。

それにしても、なんで繰り返し繰り返し、男同士のバディから卒業して、人生の伴侶として女性を選ぶことで、一人前の男になる・・・というアメリカ映画って多いのでしょう?そこには、ウーマンリブの先進国でありながら、レディーファーストの習慣も生き残っている、アメリカ独特の、ある洗脳を感じてしまうのです。

ハイスクールの最後のイベントとなる「プロム」というダンスパーティーは、男子が女子を誘うのが通例でありまして、これは将来のために女性をどのようにエスコートするかを男子に習得させるためと言われております。プロポースは男性が女性の前で跪き、バレンタインズデーには男性から女性へプレゼントをして食事に招待するというのが、いまだに常識・・・どれほど女性が社会的、経済的、肉体的にも強い時代になったとしても、表面上(?)は男性に主導権を与えるような習慣を洗脳している文化なのです。

ただ、そのような洗脳の仕組みの中でも落ちこぼれてしまうのが、近年増えてきた「オタク」っぽい男の存在であります。趣味に没頭したり、男同士でつるんで遊ぶことにしか興味のない・・・大人になりきれていない男性に対して、人生の伴侶となる真のパートナーは男友達ではなくて女性であると、潜在意識に擦り込んでいるような気がしてならないのです・・・。

「テッド」
原題/ted
2012年/アメリカ
監督 : セス・マクファーレン
出演 : マーク・ウォールバーグ、ミラ・クニス、セス・マクファーレン(テッドの声)、ジョバンニ・リピシ、ジェシカ・パース、サム・J・ジョーンズ(本人)、ノラ・ジョーンズ(本人)

2013年1月18日より日本劇場公開


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2012/12/14

”男の子になりたい女の子”と”女の子になりたい男の子”・・・トランスセクシャル=性同一障害も男の子と女の子ではまったく違うのね~「トムボーイ/Tomboy」「ぼくのバラ色の人生/ma vie en Rose」~



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”性同一障害”については、この「めのおかしブログ」で何度か取り上げてきました。「LGBT」というセクシャルマイノリティという分類において、レズビアン、ゲイ、バイセクシャルと共に並び語られるトランスセクシャルなのですが・・・ボクは違和感を感じてきました。

レズビアン、ゲイ、バイセクシャルというのは、自分の性別の認識は生まれ持った性別で性の対象が異性ではない(だけではない)ということなのですが、トランスセクシャルは自分の性別の認識が生まれ持った性別と違うという”個人”のはなし・・・性同一障害という医学的な「障害」とすることで、あっという間に社会的な理解を得たようなところがあります。日本では、いまだに”同性婚”の是非さえ論議されていませんが、”性同一障害”と認められ条件さえ揃えば、戸籍上の性別を変更することが可能になのですから。

トランスセクシャルという存在を分かりにくくしている原因のひとつが、ゲイやレズビアンもトランスセクシャルとい似たような行動をすること。ひと昔前までなら、ゲイというのは女性っぽい恰好、しぐさ、言葉遣いをするというステレオタイプが主流・・・今でも「おネエ」という男の姿をしながらも中身は女である方が、一般的には理解されやすいのかもしれません。まぁ、実際は男性らしさを求め性的にも男性を求めるゲイというの大半で、過剰に男らしさを求めると、髭、短髪、マッチョになるわけであります。

トランスセクシャル=性同一障害というと、世間的に話題になりがちなのが、男性として生まれながら性別は女性である人・・・逆の女性として生まれながら性別は男性という人は、あまり注目を浴びていないような気がします。その理由として・・・女性として生まれた性同一障害者が男性として生きている場合、違和感が少ないようないからだと、ボクは思うのです。

男性として生まれた性同一障害者が女性になった場合、どうしても男性の痕跡が残っていることが多くて・・・どんなに普通の女性以上にキレイであっても、何かしらの違和感を拭いきれなかったりします。それは声が低いとか、肉体的な特徴からというのではなく、過剰なほど女性らしさを演出してるからかもしれません。ナチュラルにすればするほど、隠したい男性らしさというのが伺えてしまうこともあるので、誰からも元男性でると気付かれない自然な女性となることは、かなり難しいと思います。

元女性が男性ホルモンの治療をすると、髭が生えてきたり、体つきがゴツゴツしてきて、見た目がほぼ男性になってしまことがあります。体格は華奢かもしれませんし、顔つきは優しかったりするかもしれません・・・それでも、男性として「パス」してしまうことが多い気がします。女顔の男性タレントを好むストレートの女性は多いし、レズビアン女性の中にも受け入れる人が多そう・・・全般的に女性からの嫌悪感はないのかもしれません。ストレート男性にとっては男性として権威となる存在でもなく・・・また、ゲイの男性に取っても性の対象にもなりにくいので、ある意味、無関心ということもあるのかもしれません。

またまた前置きが長くなってしまいましたが・・・フランス映画の「トムボーイ/Tomboy」は、10歳の少女の性のアイデンティティの葛藤を描いた作品・・・”トムボーイ”とは男の子っぽい女の子のことで、ひと昔前なら”おてんば娘”と呼ぶようなタイプの女の子のことであります。

ボーイッシュな女の子のロール(ゾエ・エラン)は、家族と夏休みにパリ郊外の団地に引っ越してくるのですが・・・近所で知り合った子供たちにミカエル(男の子の名前)と名乗り、外で遊ぶ時には男の子として振る舞うようになります。上半身裸になってサッカーをしたり、男の子たちと互角に遊び回って夏休みを満喫。おしっこしたくなっても男の子のように立ち小便は出来ず隠れて木々の中で用を足そうとしたり、粘土で作った股間の膨らみを海水パンツに忍ばせて泳ぎに行ったり、グループのちょっとおませな女の子リサと仲良くなってキスしちゃったり・・・それでも家では女の子に戻らなければなりません。ロールと真逆の超ガーリッシュな妹が、ごく自然に「お兄ちゃん」としてミカエルを受け入れているところは、興味深いところでした。

ここからネタバレを含みます。

夏闇も終わりに近づいた頃、グループの男の子ひとりと取っ組み合いのケンカをしてしまいます。男の子の母親が、ミカエルの家を訪ねたことで、母親は娘が男の子のふりをしていたことに知ることになります。普段からタンクトップに半ズボンという服しか着ない娘の本意を理解していなかったわけではないとは思うのですが、母親はあえてワンピースを着せて、男の子の家に謝りに行かせます。そして、淡い恋におちていたリサにもワンピース姿のまま真実を告白させるのです。永遠に男の子と偽り続けるのは不可能なこと・・・母親の行動は残酷にも思えますが、ロール自身が向き合わなければならない現実でもあるのです。最後には、近所の子供たちのグループに、実はミカエルは女の子であった噂が伝わります。服を脱がせて男か女か確認するというガキ大将を制したのはリサ・・・「あなたの名前は?」と訪ねるリサに、優しい微笑みをかえすロールのアップで映画は終わります。

セリーヌ・シアマ監督は、過剰な演出をすることなく自然な子供たちの姿を映していて、台詞や音楽も最低限に抑えられています。ロールが男の子のように振る舞っていたのは一時期のことで、思春期を迎えると女性的になっていくのでしょうか?ロールが将来的に、性同一障害者になるのか、レズビアンになるのか、それとも単に男っぽい女性となるのか、どうであれ彼女自身が受け入れていくしかないのです。子供でさえ当たり前のように区別する「性別」・・・「男」か「女」かハッキリさせたいのは、ある意味、人間の無意識なのかもしれません。初対面の人の人種、年齢、階級などが認識できなくても、性別だけは最低でも認識しているものだったりするのですから。


「トムボーイ」を観て思い出したのが、”女の子になりたい男の子”を描いた「ぼくのバラ色の人生」でした。この作品については「おかしのみみ」で書いたことがあるのですが・・・「トムボーイ」の自然体とは、真逆の世界感によって表現されているところが、大変興味深いところです。女の子が男の子になりたいときは自然のまま、男の子が女の子になりたいときは人工的で過剰な装飾・・・濃い化粧だったり、装飾のあるドレスだったり、現実離れした極彩色の妄想の世界だったりします。

7歳の男の子リドヴィック(ジョルジュ・デュ・フレネ)は、大勢のゲストの集まるホームパーティーに”おめかし”のつもりで、姉のドレスに母親のイヤリングをつけ、真っ赤な口紅で堂々と登場してしまうほど、無邪気。なんとかして”男の子”としての自覚を持たせようと、両親はカウンセリングに通わせたりもするのですが、このことに関してだけはリドヴィックは頑固・・・父親の上司の息子ジェロームに恋をしていて、将来、結婚することを夢見ていたりします。母親から「男同士は結婚できないのよ!」(近い未来には死語になりそうな理屈ですが)嗜められると「大きくなったら女の子になる」からと答えます。しかし、そんなリドヴィックに対して、両親は”男の子”であることを強要して、大事に伸ばしている長髪もバッサリ刈られてしまいます。そんな過酷な状況でも、極彩の人工的な”パム”の世界(テレビ番組のミューズ)を妄想して、リドヴィックはやり過ごしているのです。

「トムボーイ」と「ぼくのバラ色の人生」は、子供の”性同一障害”という似たテーマを扱っています。両親は、時には厳しすぎると思えるほど、生まれもった性別を強要していきます。しかし、それが不快に感じないのは、どちらも子供に対する両親の愛情も描かれているからかもしれません。世間一般的な「男らしさ」や「女らしさ」を求めるのではなく、ありがままの息子や娘を受け入れようとする両親の葛藤こそが、ボクの心を震わせて止まないのです。


「トムボーイ(原題)」
原題/Tomboy
2011年/フランス
監督 : セリーヌ・シアマ
出演 : ゾエ・エラン、マーロン・レヴァナ、マチュー・ドゥミ、ソフィー・カッターニ、ジャンヌ・ディソン

2011年6月26日「フランス映画祭2011」
2011年10月8日「第20回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」にて上映



「ぼくのバラ色の人生」
原題/ma vie en Rose
1997年/ベルギー、フランス、イギリス
監督 : アラン・ペルリネール
出演 : ジョルジュ・デュ・フレネ、ミシェール・ラロック、ジャン=フィリップ・エコフィ、ピーター・ベイリー

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2012/11/22

実在モデルを妄想した「女芸人ブーム」の考察・・・重箱の隅を突つくような”分析”と畳み掛けるような”皮肉”~「幸いは降る星のごとく」橋本治著~



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「橋本治」という作家/評論家は、ボクにとって特別の存在であります。十代後半から二十代前半という”大人”としての成長期に多大なる影響を与えられました。大袈裟ではなく・・・ボクという人間の人格形成は、橋本治の著書によって構築されたといっても過言ではないほどなのです。

ボクが初めて購入した「橋本治」の本は、1977年に発表された「桃尻娘」ではなく、マンガ評論の「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」でありました。当時(1970年代末期)、唯一のまんが評論誌であった「だっくす」という雑誌(同人誌?)をボクは愛読していたのですが、橋本氏は最も人気の執筆者として同誌で活躍されていました。もしかしたら・・・橋本氏に会えるかと思って、西新宿にあった「だっくす」の編集室を何度か訪ねたこともあります。雑居ビルの一室にあった狭い編集室で、橋本氏と会うことは敵いませんでしたが・・・編集室のお兄さんとお姉さんから「花咲く」を読むことを奨められたのです。まだ、少女マンガを「評論」することさえなかった時代に、少女マンガを切り口に、少女という存在だけでなく人間についてのさまざまな考察をしていた”やさしい哲学書”といった本書は、すぐボクのバイブルとなりました。

女子高校生の一人称で語られる「桃尻娘」は日活ロマンポルノで映画化をされていたこともあって、十代の少年であったボクは手が出しにくかったのですが・・・1981年9月、ニューヨークの英語学校へ留学する時に、文庫になったばかりの「桃尻娘」を携えて渡米したのです。「桃尻娘」の中の台詞を覚えてしまうほど何度も何度も繰り返し読み、ボクは「桃尻娘」の主人公の玲奈になりきっていました。その頃、1ドル=250円という円安の時代・・・ニューヨークの日本の書店では1000円の本が10ドル(2500円)で売られていて、留学生にとって和書は大変高価なものでした。そんな環境であっても購入していたのが、橋本治氏の本でした。「花咲く」の少年マンガ版の「熱血シュークリーム(上)」(何故か下巻はいまだ発売されていない)、人生の指南書だった「シンデレラボーイ シンデレラガール」、映画批評というか形式を取りながら時代と”性”を分析していた「秘本世界生玉子」、さまざまなジャンルの雑文を集めた「よくない文章ドク本」・・・そして圧巻だったのが「すべての男はホモになれ!」というトンデモナイ人生教本であった「蓮と刀~どうして男は”男”をこわがるのか?~」です。この本を読む前にボクはとっくに”ホモ”でありましたが・・・自分の中でモヤモヤとしていた”何か”が、ハッキリと確信することができた気がします。

「桃尻娘」は1980年代に入ってからシリーズ化され「その後の仁義なき桃尻娘」「「帰って来た桃尻娘」「無花果少年と瓜売小僧」「無花果少年と桃尻娘」「雨の温州蜜柑姫」と1990年まで続き・・・推理小説を分析してパロディにしたような「ふしぎとぼくらはなにをしたらいよいのか殺人事件」、サイモンとガーファンクルのヒット曲をタイトルにした短編集「S&Gグレイテストヒッツ+1」など、新刊で出るたびにボクは購入して愛読していました。しかし、橋本氏の真面目で前衛的な小説は全部スルー・・・あくまでもボクにとって、橋本氏は純粋な小説家というよりも、人生の哲学者のような存在だったのです。

1990年代中頃ぐらいから橋本氏の本は購入するものの、それほど夢中になって読むほどでもなくなってきました。それは、すでにボク自身が30代になり、自分なりの人格が出来上がってきたことと、橋本氏の評論が以前にも増して”しつこく”説明過多がちになってきて、読むのがしんどくなってきたこともあるかもしれません。また、橋本氏が古典文学の現代訳に大きく力を注ぎ出したり、評論家としてますます権威的な存在になっていってしまって・・・徐々にボクは橋本氏の本を手に取らなくなってしまったのでした。

一時期、橋本氏はテレビ番組にも出演してお茶目な一面も見せていたようですし、「男の編み物 橋本治の手トリ足トリ」なぞという編み物の教本を出版して”手編み作家”として注目を浴びたりしていたようですが・・・ボクはそれらの活躍を実際に目にする機会もなく、橋本氏のことはいまだに書籍からしか知りません。それでも「橋本治」は、ボクという人間構築に最も影響を与えた人なのです。

さて、スゴ~く長い前置きになってしまっていましたが・・・「橋本治」の小説をボクが読むのは大変久しぶりだということです。「幸いは降る星のごとく」は小説という形式ですが、作者、読者、編集者という存在を意識した「女芸人ブーム」を分析、考察した研究発表と言えるような内容ではあります。これほど実在するモデルの精神的な内面について、勝手に(!)妄想して、キツイ皮肉に満ちた描写をするのは、あまりにもモデルに対して失礼な”禁じ手”のような気がしてしまうほどです。登場人物たちの設定は、若干事実とは異なるところがありますが・・・今活躍している女芸人の家庭環境や芸風を知っているのであれば、明らかに誰をモデルにしているかがハッキリと分かります。

「オアシズ」をモデルとした「モンスーンパレス」は、金坪真名子=光浦靖子と安井貴子=大久保佳代子そのもの。第4話で登場する阿蘭陀おかね(本名・斎藤美帆子)=椿鬼奴(本名・宮崎雅代)と、ともざわとみこ=いとうあさこも、家庭環境から現在の状況もほぼ本人とそっくりです。何も起こらない人生なのに勝手に自己完結してしまっている”金坪真名子”、自分がブスであることさえも認識していない勘違い女の”安井貴子”、芸もないのにキャラだけが面白がられて売れてしまった”阿蘭陀おかね”、ひがみキャラで世間に希望を与えて売れてしまった”ともざわとみこ”・・・小説というフィクションだと解釈しようとしても、実在モデルがあまりにも明らかなので、どうしても本人と重ね合わしてしまいます。

辛辣な分析をしているように、おそらく橋本氏は今の「女芸人ブーム」に対して不満を持っていらっしゃるようで・・・重箱の隅を突つくような”分析”と畳み掛けるような”皮肉”に満ちた本書は、「女芸人」および「普通の女」には読ませたくない「禁書」・・・橋本治は「パンドラの箱」を開けてしまったようです。


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2012/11/10

既婚のおじさんゲイが若い男に夢中になると”悲劇”なの!・・・イスラエルと南アフリカの同性愛映画~「Eyes Wide Open/アイズ・ワイド・オープン」「Beauty/ビューティー」~



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円満な家庭生活を送りながら、実は男ともセックスしているという「既婚者ゲイ」というのは、世間で想像する以上にに存在していると思います。日本は、不倫に対しては比較的寛容だし、同性愛に対しての理解も年々広がりつつあります。しかし、既婚男性が「ゲイ」として自覚しつつ、他の男性(性転換した元男性とか、女性と見間違うほどの女装ではなく)とセックスするということは、まだまだ世間的に受け入れ難いことの”ひとつ”ではないかと思います。

2009年のイスラエル映画「Eyes Wide Open/アイズ・ワイド・オープン」は、戒律を守る超正統派のユダヤ教徒の「既婚者ゲイ」を描いた作品であります。超正統派ユダヤ教徒のコミュニティ内の「禁断の愛」を描いた物語なのですが、スキャンダラスな視点で描くというのではなく、説明過多の台詞や演出を抑えて、淡々と描いていきます。黒い背広と黒いズボンの上下、無地の白いシャツ、黒い山高帽、長く伸ばした髭にカールしたもみあげという独特な風貌・・・ユダヤ教の規律に厳しく従って生きているオーソドックス・ユダヤ人のコミュニティーに「ゲイ」という存在はありえないんじゃないか・・・と思ってしまいがちですが、どんな人種であっても、どんな宗教の信者であったとしても、同性愛者というのは存在するのです。

アーロン(ザマー・ストラウス)は、エルサレムで妻と4人の子供に恵まれた信心深い超正統派ユダヤ教徒・・・父の死後、ショックでしばらく閉めていた肉屋を、再び開店するところから映画は始まります。ユダヤ教に於いて、肉屋というのは宗教的な儀式である肉の処理をするという仕事を担っているので、コミュニティの中でも大事な役目を負った教徒と言えるのかもしれません。肉屋の求人の張り紙を張ったところ、イェシバ(ユダヤ教の神学校)の学生のエズリ(ラン・ダンカー)という若者が電話を借りたいと店に入ってきます。友人を訪ねてエルサレムに来たけれど、その友人と連絡が取れず、職なし宿なしになっているエズリに、アーロンは仕事を与えて、店の二階に住まわせることにします。ユダヤ教徒の年長者として、イェシバの学生にするべきことであります。こうして、エズリはアーロンの家庭やエルサレムのユダヤ教徒のコミュニティにも溶け込んでいくのですが・・・次第にアーロンとエズリはお互いを意識するようになっていくのです。

ここからネタバレを含みます。


ある日、町外れの水浴び場にやってきた二人は、裸でじゃれ合っているうちに、ある一線を越えてしまいます。今まで自分がゲイであることを押し殺して生きてきたアーロンは、たちまちエズリに夢中になってしまい・・・肉屋の閉店後、ふたりはセックスを繰り返すようになっていくのです。実は、エズリは前の彼氏を追ってエルサレムに来たのですが・・・宗教上の理由で捨てられて、彷徨っていたのです。そのうち、アーロンの妻は毎晩帰りの遅い夫に不信感を持ち始め・・・少しずつ広がっていくエズリの”悪い噂”。やがて告発文が街に貼られて、二人の関係がコミュニティ内に広がっていくと、ラビ(ユダヤ教の僧侶)からも責められ始めます。「私は死んでいた!でも、今、私は生きている!」と・・・エズリの存在によって生きている証を得られるのだと激白したアーロンには、宗教人として、家庭人として、すべてを失う道しか残されていません。エズリと初めて愛を確認した水浴び場で、彼はひとりで深く水の中に沈んでいき、そのまま二度と浮かび上がることがなく映画は終わります。

超正統派ユダヤ教のコミュニティのような生活と宗教が直結している環境では、ゲイとして生きることは不可能なことです。宗教的にも、社会的にも、家庭的にも、ゲイであることを許されないアーロンが、自死を選ぶという”悲劇”は、ある意味”古典的”ともいえる結末です。「既婚者ゲイ」の”悲劇”として昇華するアーロンの物語なのですが・・・妻や子供の視点からすれば、堪え難き仕打ちでしかありません。”悲劇”に強く心痛めながらも・・・ボクは複雑な気持ちになることも抑えられないのです。


2012年の南アフリカ映画「Beauty/ビューティー」は、より生々しい「既婚者ゲイ」の”悲劇”というか・・・不快さを描いた作品です。南アフリカという国の”今”というのはよく知りませんが、アパルトヘイト後も白人優位の社会が覆ったわけでもなく、欧州やアメリカなどの白人社会とも違う印象があります。とはいっても・・・宗教的、および、社会的に同性愛が迫害されているというわけではないようで、それなりのゲイカルチャーというのは存在しているようではあります。それでも、個人的に同性愛を抑圧するような背景はあるわけで・・・「既婚者ゲイ」という立場であれば、自己否定による”屈折”や”矛盾”を感じながら生きなければならないという”悲劇”はありえるのです。

南アフリカのブルームフォンテーンで暮らすフランソワーズ(ディオン・ロッツ)は、木材会社を経営する白人の40代半ばの中年男・・・妻と二人の娘に恵まれ、ひとりの娘を嫁にやったところです。ただ、夫婦間の会話は親戚や友人らの噂話や愚痴ばかり、明らかに欲求不満気味の妻に冷たく背を向けます。これは、日本の夫婦でもありがちな状況かもしれません。さらにフランソワーズは、人種差別主義者であることや、ホモフォビアを隠そうともしない嫌な奴でもあります。

実はフランソワーズは「既婚者ゲイ」・・・ホモフォビアな発言をするのも、ある種の自己防衛、自己否定なのかもしれません。結婚生活を送りながら、彼は時々人里離れた農家での秘密の集まりに参加しています。お互いに秘密を守れる「既婚者ゲイ」だけが参加出来る”乱交パーティー”に興じているのです。普通のおっさんたちが、ブヨブヨの体でエッチをしまくっているシーンは、正直おぞましく見えます。秘密で結ばれている仲間ですが、ハッキリ言って、ただ”ヤルだけ”の仲間・・・秘密厳守のルールや礼儀は守っても、真の人間関係なんて存在していないように思えます。

「既婚者ゲイ」のおじさん同士でのセックスで発散しているフフランソワーズですが・・・長年の友人の息子で、娘の幼馴染みでもある青年クリスチャン(チャーリー・キーガン)に、密かに惹かれています。パートタイムでモデルをするほどのハンサムで、弁護士になるために法学部へ通う学生のクリスチャンに、フランソワーズは将来的には自分の会社の弁護士になれば良いなどと、何かとかかわりを仕掛けていきます。次第にフランソワーズはクリスチャンに執着するようになり、ストーカーのように追いかけるようになっていくのです。

ケープコードの別荘に行ったクリスチャンの家族を追いかけ、フランソワーズは仕事の出張と口実で数日ケープコードへ旅行へ出かけます。どうにかしてクリスチャンに近づくチャンスをうかがっていたのですが・・・幼馴染みでもある彼の娘が現れて、二人で早々にビーチへ遊びに出かけてしまいます。抑えきれない嫉妬を感じたフランソワーズは、車が盗難されたという狂言を演じて、娘とクリスチャンを引き離そうとします。結果的に作戦は失敗し、フフランソワーズはゲイバーで飲んだくれます。ただ、これが功を博して、心配したクリスチャンが迎えにきて、滞在しているホテルまで送るということになります。

ここからネタバレを含みます。


この絶好のチャンスを逃すものかと・・・フランソワーズはホテルの部屋までクリスチャンを連れ込みます。急接近するフランソワーズをかわすクリスチャンに、遂にフランソワーズは火がついたように襲いかかります。いきなりの事態に恐怖でおびえるクリスチャンの顔を殴りまくり、フランソワーズはクリスチャンを犯します。しかし、あれほど執着していたクリスチャンだったのに、無理矢理やってしまえば、それまで・・・やり終わって呆然とするフランソワーズに、満足感も達成感も感じられません。

友人の息子、それも子供の時から知っている青年を襲う・・・というのは、あまりにも危険で衝動的な行動としか思えません。まず現実では、ありえません!本作では犯された後のクリスチャンがどうしたかをまったく描きません。もしも、クリスチャンによってレイプをバラされたら、フランソワーズがゲイであることが暴露されるだけでなく、犯罪者にもなってしまうはず・・・ただ、多くの性犯罪の被害者が、公表することで、さらに深く傷つくことを恐れて泣き寝入りするように、クリスチャンも口をつぐんだということなのでしょうか?映画は、もとの生活に戻ったフランソワーズが、螺旋状の駐車場の通路を延々と下っていくところで終わります。まるで彼の人生が、どこへにも辿り着かないかのように・・・。

クリスチャンにとっては、トラウマになるような恐ろしい経験をしたわけですが・・・フランソワーズは、相変わらず「既婚者ゲイ」として二重生活を送り続けます。妻も要求不満を抱えたまま、何も知らずに冷えた夫婦生活を、これからも送っていくのでしょう。フランソワーズはホモフォビアのまま・・・「既婚者ゲイ」や「非ゲイ」の男と、セックスを繰り返すに違いありません。ゲイであることを認めている「真性ゲイ」という存在は、フランソワーズにとって脅威であり、恐怖なのかもしれません。これほどの自己矛盾を抱えながら生きることは・・・”悲劇”以外のなにものではありません。

日本では、急激に”オネェ”や”性同一障害”の理解が広がっています。オネェタレントに代表されるような、ステレオタイプの”オネェキャラ”というのは、異端のバケモノ、もしくは、道化師として、おもしろおかしく受け入れられているだけのこと・・・ご意見番という”立ち位置”を与えられるのは、あくまでも本筋から外れている”部外者”であるからです。また、性同一障害についてテレビ番組などで、肯定的、かつ感動物語として取り上げているのは、医学的な判断に基づいて”障害”だからこそ・・・男性として生まれてきたけれど心は”女性”という「障害」を持った可哀想な人というわけです。ボク個人的には”障害”としていることに違和感を感じますが、戸籍変更など法律的な対応を考慮すると・・・個人の選択というのでは、難しかったのかもしれません。

もしも、自分の夫が「ゲイ」という場合、それは”オネェキャラ”でもなく、医学的な”障害”でもなく、単なる性的な”嗜好”ということになります。それの”嗜好”を理解して乗り越えるというのは、お涙頂戴の感動にはなりにくいでしょう。”BL”に萌える主婦って結構いるらしいけど・・・自分の夫が男とやっていたとしても「OK」なのでしょうか?女性との浮気は勘ぐったとしても、まさか自分の旦那が男とエッチしているなんて、想像すらしない奥さんというのが殆どだと思います。実は夫は「既婚者ゲイ」というのは、まだまだアンタッチャブルな領域のような気がするのです。

50代以上の世代だと、ゲイであることを十分に自覚しつつ・・・世間体や会社での立場などを考えて、仕方なく結婚したという”ゲイ”が、かなり存在します。若い世代になるほど。自分がゲイであると知りながら「無理してまで結婚したくない!」という生き方を選択する人が増えています。これって、近年の男性未婚者数の上昇の要因のひとつかもしれません。

既婚者でゲイに、ボク自身も何人も遭遇したことがありますが・・・物心ついた時から自分がゲイであるという自覚はあったけれど結婚したという人もいれば、若い時にはストレートと思い込んでいた(思い込もうとしていた?)けれど40歳過ぎてからゲイ体験をして目覚めしまったという人もいたりします。結婚しているぐらいだから、男とのセックスでも”タチ”なんでしょう・・・というわけではなく、どうしようもないほどの”ウケ”の「既婚者ゲイ」もいたりします。今では夫婦間でのエッチはないという「既婚者ゲイ」が殆どではあるようですが、中にはエッチを強要する奥さまもいるようで・・・夫がゲイであることを否定するための最後の砦としての性行為なのかもしれません。

「既婚者ゲイ」には、ゲイであることに多少は”後ろめたさ”を感じているタイプもいれば、完全に開き直ったとしか思えないタイプもいます。”後ろめたさ”を感じるタイプは、秘密厳守のために相手も「既婚者ゲイ」であることを求める傾向があります。ただ、最近は出会い系サイトやアプリが非常に豊富なので「既婚者ゲイ」にとっても出会いは楽になったようです。失った時間を取り返すかのように、普通のゲイ以上にセックスしまくる強者の「既婚者ゲイ」というのも結構います。所詮は不倫相手なので、男とはパートナーになる意志はまったくなく・・・「セフレ」としては、普通のゲイよりも割り切れっているかもしれません。開き直ったタイプには「子供なんて全然愛してないし、家族なんてどうなっても良いんだ」という、人としての資質を疑ってしまうトンデモナイ輩もいたりします。

「既婚者ゲイ」は、そうでない人からは、到底、理解できない矛盾を抱えながら生きていかなければならないわけで・・・自分自身だけでなく、妻や子供などの家族、またセックスの相手となる男に対しても、ある意味”悲劇”を連鎖させている存在ではあると思うのであります。


「アイズ・ワイド・オープン」
原題/Eyes Wide Open
2009年/イスラエル
監督 : ハイム・タバクマン
出演 : ザマー・ストラウス、ラン・ダンカー

日本未公開


「ビューティー」
原題/Beauty(Skoonheid)
2012年/南アフリカ
監督 : オリバー・ハーマナス
脚本 : ディディラー・コステス、オリバー・ハーマナス
出演 : ディオン・ロッツ、チャーリー・キーガン

日本未公開

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2012/10/31

不快度MAXの問題作になるはずだった!?・・・少女の性への嫌悪感は容赦ない悪意へと暴走するの!~「先生を流産させる会」~


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そのタイトルからして・・・禍々しいヤバさを感じさせる「先生を流産させる会」という映画について耳にすることはあっても、一般の劇場で公開というのは、なかなかありませんでした。カナザワ映画祭、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭などで上映されるだけ・・・陽の目をみることはなしにDVDスルーになるのかなと思っていたところ、今年の5月にはレイトショーなど限定的ながら劇場公開されました。結局、ボクが本作を観ることになたのは、先日DVD化されてからのことではあったのですが・・・タイトルの過激さの期待には応えきれていない残念なオチの作品でした。

「先生を流産させる会」は、2009年2月に発覚した愛知県の中学校で実際に起きた事件を元にしています。部活動のことで注意されたり、席替えで一部の生徒を優遇する配慮(不登校気味の生徒の近くに仲の良い生徒が座るようにした)をしたことに不満を持った「男子生徒」(当時、中学1年生)11人が「流産させる会」を発足させて・・・当時、妊娠6ヶ月だった30代の担任女教師を流産させることを目的に、給食に異物を混入させたり、イスの背もたれの部品のネジをゆるめる細工をなどをしたのです。女子生徒からの通報で犯行が発覚して、教師は流産することはなかったということですが・・・実際に犯行に関わった男子生徒5人は刑事告訴もされず、いたずらの範疇として厳重注意だけで済まされたということに、疑問を投げかけた事件ではありました。

本作では、犯行におよぶ生徒たちを「男子生徒」から「女子生徒」へと変更されているのですが・・・これは、かなり大きな変更であります。本作は、元ネタとなった実際の事件とは、まったく別モノといっても良いでしょう。男子であれば「男の性の暴力性」や「女教師へのアコガレや嫉妬」というのが犯行の理由となるのかもしれませんが・・・女子による犯行だとすると「性への嫌悪感」「性的な存在への成長拒否」など内向きな精神的な問題となるからです。

たった62分という”中編”映画作品でありながら・・・「先生を流産させる会」は「告白」などの湊かなえ原作作品に通じる”女の悪意”の連鎖”をジワジワと感じさせます。女子中学校の教師サワコ先生(宮田亜紀)の妊娠が発覚し、多感な女子生徒たちのなかでは不穏な注目を集めます。グループのリーダーのミヅキ(小林香織)は「あいつセックスしたんだよ」と嫌悪感を明らかにし、グループの他の女子生徒たちも「気持ち悪いよ」「キモいね」と同意・・・集合場所となっている廃屋のラブホテルの部屋で「先生を流産させる会」を結成することになるのです。このサワコ先生というのが、理想的な教師として描かれているかというと、そういうわけでなく・・・女子生徒が反抗心を持つのも理解できるような、ちょっと嫌な女として感じられるのが絶妙であります。

まず、ミヅキたちはサワコ先生の給食のスープに異物を混入させます。生徒との談話しながらの給食中に、サワコ先生は嘔吐してします。悪意のいたずらを察したサワコ先生は、手紙で犯人を手紙に書いて密告するように生徒たちに迫ります。その結果、先生を流産させる会のひとりが密告して、すぐさま犯行に関わった女子生徒たちが呼び出されます。「もし、自分が妊娠してお腹の子供を殺されたら、どうするか?」と問い詰めるサワコ先生に対して、生徒たちは「訴える」「分からない」と答える中、リーダー格のミヅキは「生まれたないんだから、いなかったことにすればいい」と開き直ったような返答をします。後に、水泳の授業中に”初潮”を迎えることになるミヅキにとって、胎児という存在は”命の尊さ”よりも”妊娠の汚らわしさ”の象徴でしかないようです。性的な自分を拒絶するということは「自己否定」「自己嫌悪」でしかなく・・・リーダー格として確かな自分をもっているように見えるミヅキという少女が、グループの中で最も危ういということなのかもしれません。

女子生徒たちに向かって「私は先生である前に女なの!あなたたちも生徒である前に女なのよ!」と叱るサワコ先生・・・いくら悪質な生徒に対してであっても、こんな言葉を投げかける先生というのは”アリエナイ”ような気もしますが、何が何でもお腹の子を守ろうとする鬼気迫る強い思いを感じさせます。「お腹の子を殺した奴は殺す!」とまで脅すのですから。しかし、ミヅキたちはサワコ先生の”脅し”にも屈することもなく、流産させるための犯行をやめることはありません。サワコ先生の椅子の部品を取り除いて転ばします。ミヅキは理科室から劇薬を盗んで、毒を盛ることさえ計画を始めるのです。

ここからネタバレを含みます。



グループの中で密告していた女子生徒の母親は、絵に描いたようなステレオタイプの”モンスターペアレンツ”で、娘を登校させなくなっていたのですが・・・ミヅキは、その娘を巧みに呼び出し、廃屋のラブホテルの一室で、劇薬の調合をさせます。モンスターペアレンツの母親とサワコ先生が、娘を捜して乗り込んできたことを察したミヅキは、その娘を部屋に閉じ込めて、サワコ先生を返り討ちするのです。スタンドライトを振りかざし、お腹を殴り続けて、ミヅキは当初の目的どおり・・・サワコ先生を流産させてしまいます。

遂に、サワコ先生が逆上して、悪意の化身であるミヅキに襲いかかるのか・・・と思ったら、ミヅキを襲うとするモンスターペアレンツの母親への”盾”となって、ミヅキの身を守ろうとするのです。最後の最後には、生徒に流産させられても、モンスターペアレンツに立ち向かう戦う教育者としての”正義”に目覚めるとでも言うのでしょうか?自分のお腹の子を無惨にも殺した生徒を、自らの身が傷つけられても守るのが、教育者としての使命なのでしょうか?川原に水子を共に弔うサワコ先生とミヅキ・・・なんとも釈然としない”和解”であります。

「教育映画」的な問題提起・・・という”良い子”な逃げ道を選んだエンディングになってしまったことで、サワコ先生の”人間性”の救いが、かなり「ぬるい」作品に貶めてしまっているのは、本当にガッカリでありました。流産させられたサワコ先生が、言葉どおりミヅキを殺す、または、殺そうとするという決着をつけるしかないような話だと思うのです。そしてサワコ先生は流産した上に、世間からは罵倒される・・・という救いのない絶望を描いて欲しかったと、ボクは切に願ってしまったのでした。


「先生を流産させる会」
2011年/日本
監督、脚本、製作:内藤瑛亮
出演      :宮田亜紀、小林香織、高良弥夢、竹森菜々瀬、相場涼乃、室賀砂和希、大沼百合子


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2012/10/23

敷かれたレールの乗っているからこその”ヒエラルキー”と”同調感”・・・学生時代の呪縛からは大人になっても逃れられていない!?~「桐島、部活やめるってよ」~



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最近、映画館に足を運んで映画を観ることって少なくなりました。ボクの視力が悪くなったのか、老眼のせいなのか、スクリーンに映される画像が、自宅の大型液晶テレビで観る画像より、ぼんやりと見えてしまうということが、ひとつ。死ねコンプレックスが増えて、映画館で上映されている作品自体は増えているように感じるのだけど、公開から日にちが経つと一日の一度しか上映など変則的なスケジュールだったりすることが多いことがあるかもしれません。

そして何よりも・・・ネットを通じて、作品の評判を耳にしてしまうと・・・良い評判でも、悪い評判でも、結果的には良い方に転ばないことが多いということもあります。ボク自身、公開前の作品について、ネタバレ気味に感想を書いていることもあるので、批評や感想をネットで公開することを否定出来る立場ではありませんが・・・良い評判を聞くと、期待度が高くなって、実際に観た時のハードルが高くなりがちです。何も知らずに観れば、新鮮な驚きとともに、とっても良かったと思える作品でも、評判ほどではない・・・とか、マイナスへ働きがちだったりします。逆に、悪い評判ばかりを聞いてしまうと、観ようと思っていた作品でも、観る意欲が一気に失われたりします。だったら、観たいと思っている映画については、極力評判などは観ないようにするべきというのは分かっているんだけど・・・気になってしまいます。

「桐島、部活やめるってよ」は、公開時には殆ど気にしていなかった作品でした。しかし、いろんな人の評判があまりにも良いので気になってきた時には、すでに上映しているのが都内では単館での、それも一日一回しか上映でしかなく、連日満員売り切れ状態となっていました。10月に入ってから再び拡大上映という異例な作品で、2012年の邦画ベストワンの呼び声も高まってします。ただ、これほど期待度のハードルを上げられた状態で観たことが災いしてか・・・ボクの観賞直後は「ふ~ん、スゴく上手に作られた映画だけど、話としてはコジンマリしているなぁ」という印象でした。しかし、原作本を読んでみて、本作がいかに映画的表現によって原作以上に細かな心理を表現していたことを、改めて感じたのです。

原作は2009年の小説すばる新人賞を受賞した朝井リョウの同名小説・・・受賞当時19歳の現役大学生が同世代の気持ちを表現した作品は、正直ってボクのようなアラフィフのおじさんには、文章のテンポに違和感があって、大変”読み辛い”小説でした。バレー部キャプテンの桐島が突然理由も告げずに部活をやめたことにより、学生たちに起こる波紋を描く群像劇であるのですが・・・桐島本人は登場しないというところが「ゴトーを待ちながら」風になっています。映画化にあたって、吉田大八監督は説明的なモノローグの台詞などを一切排除し、ひとつの出来事が起こった状況を各キャラクター視点によって繰り返し描くことにより、その場にいたそれぞれのキャラクターの心情を痛々しいほどリアルに観客に伝えることに成功しているように思います。それ故、ストーリーを追っていくというよりも、各シーンごとに浮き彫りにされる登場人物たちの内面を垣間みることが醍醐味という感じ・・・観客によって感情移入出来るキャラクターがあるだるし、説明し過ぎていないので観客が感情的に余白を埋めていくということにもなるようです。

本作で描かれるのは、生徒によって築かれている学校内のヒエラルキー(格差社会)・・・ルックスが良くて、運動ができる(他に勉強ができる、家がお金持ちとか)というヒエラルキーの頂点に君臨する者がいれば、見た目がイケてなくて、運動が苦手という下層に属さなければいけない者がいるというのは、青春時代に誰もが感じさせられることかもしれません。そして、同調感を保つことで仲間はずれにになることもなく所属するグループに存在できる・・・それって、学生時代に限らず、会社や仕事場でも誰もが無意識に行ってしまっていることかもしれません。ヒエラルキーを意識して同調感によって人との関係を成り立たせることは、大人にあってからも人間関係の基礎だったりするので、本作は年齢を超えて共感を呼ぶのかもしれません。学生時代に感じた理不尽な呪縛から逃れたいけれど・・・結局、大人になっても、ヒエラルキーを無視することは出来ず、同調感によって人間関係の潤滑油にしていることには変わりないのです。だからこそ、本作に強い思いを感じる人が多いのかもしれません。

ボク自身はというと・・・高校時代に登校拒否になり、その後に海外留学という「反則技」を使ったので、世間一般的にいう”敷かれたレール”から自ら外れてしまいました。それ故に、日本社会のヒエラルキー感覚や同調感によって成立させる人間関係とは、一歩も二歩も引いたところにいるような気がしています。利害が発生する関係であっても、立場的に上の人に”おべんちゃら”を使って同調感を築くことに、どうしても抵抗感を感じてしまうのです。ただ、ビジネスに於いて力関係に従うのは当然のこと・・・ヒエラルキー感覚と同調感に優れていることで、業界的に成功している人というのも多いのは当たり前なことなのです。”敷かれたレール”から外れてしまったボクの生き方は「やり方が下手くそねぇ」ってだけのことなのかもしれません。


「桐島、部活やめるってよ」
2012年/日本
監督 : 吉田大八
脚本 : 吉田大八、喜安浩平
出演 : 神木隆之介、橋本愛、東出昌大、清水くるみ、山本美月


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2012/10/12

カルト教団こわ~い・・・信じる者は最後に暴力へ導かれる!?~「レッド・ステイト/Red State」「マーサ、あるいはマーシー・メイ/Martha Mary May Marlene」~



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カルト教団の恐さのひとつって・・・詐欺まがいで金を集めたり、訳のわからない奇行をさせられることもあるけど、信者になってしまった人が自己判断能力を失ってしまうことだと思います。もしかすると、当初は何かしらの”救い”を与えているのかもしれませんが・・・教団が社会的に受け入れられなければ受け入れられないほど、教団の閉鎖感と異常性が過激になっていきがち。最終的には教団に反するものを排除するための”暴力”へと発展しがちです。いつの時代にも、世界のどこかで、新たなカルト教団が出現して、不可解な事件を起こす・・・ナチス、コミュニスト(共産主義者)、テロリストに続いて、カルト教団は、映画の中では”絶対悪”の存在として扱われるのかもしれません。

「チェイシング・エイミー」や「恋するポルノグラフィティ」などの”ダメ男”のためのラブコメで知られる、オタク監督ケヴィン・スミスが、わざわざ自ら400万ドルの資金集めまでして自主制作した「レッド・ステイト/Red State」は、保守的なキリスト教団体を”キ○ガイ”扱いする過激な内容のサスペンス・アクション映画であります。

アメリカ中部の田舎町の高校生3人組が、セックスの相手を募集する女性のネット広告につられて、喜んで出向くと・・・そこには、結構いい歳の迫力のある”おばちゃん”(メリッサ・レオ)が待ち構えていたのです!そこで引き返せば良いものの、誘われるがままトレーラーハウスに入ってビールを飲むと、彼らは気を失ってしまうのです。彼女は超保守派のキリスト教信者で、性の乱れを象徴する”悪しき者”として、彼らを教会内で公開処刑しようと罠にはめたのでした。教祖(マイケル・パークス)が語る教団の教えは、アメリカ国内に今も実在するキリスト教原理主義的な教会の思想に近く、保守派の信者たちにとっては一部は賛同できてしまいそうなところが恐い・・・同性愛や堕胎手術を宗教的に許さないというアメリカ人は、統計的には3人に1人はいるのだから。

少年達が処刑されそうになるまでは、ティーン向けのホラー映画っぽいノリなのですが・・・中盤からは機動隊が派遣されて、捕虜であるはずの無実の少年達も、洗脳されている信者達も殺されていく銃撃戦となっていきます。そして最後には、機動隊のエージェント(ジョン・グッドマン)が、事件の顛末を、上司に報告するという政治的な会話劇になっていきます。また、冒頭の憲法についての授業、教祖が教団の思想を語るくだり、機動隊エージェントと上司とのやり取りなど、説明的な台詞が多くてクドい印象・・・キーパーソンとなる教祖役のマイケル・パークスとエージェント役のジョン・グッドマンの説得力のある演技力によって、ケヴィン・スミス監督の、超保守的なキリスト教団の思想に対してだけでなく、威圧的な権力構造に対しての嫌悪感も、ヒシヒシと感じられる奇妙な映画となっています。

保守的なアメリカの一部では、同性愛や堕胎手術を否定するほうが常識的だったりします。ボクが、同性愛や堕胎手術は自由意志だと考える権利が与えられているように、超保守派にも反対する権利が平等に許されているのです。宗教や思想の自由のない社会は恐ろしいけど、自由のある社会というのも、また恐ろしい・・・しかし、その”宗教”によって、歴史的に人は殺し合ってきたわけで、何が正しいのか分からなくなってきてしまいます。



「マーサ、あるいはマーシー・メイ/Martha Mary May Marlene」も、カルト教団を描いた映画ではあるのだけど・・・こちらは、マーサ(エリザベス・オルセン)という1人の女性が、あるカルト集団に洗脳されていく過程を、淡々と描写していきます。ミヒャエル・ハネケ監督のような地味な作風ではありますが、じわじわと恐くなってくる作品です。

ニューヨーク州のキャッツキル周辺の農園で、自給自足に近い集団生活をする若者たち・・・ギター演奏で唄を歌ったり、一緒に農作業したり、一見するとヒッピー的には理想に近い生活環境のようにみえます。しかし、その実態はリーダーの男(ジョン・ホークス)によって洗脳された集団だったのです。本作は、2年間音信不通だったマーサが、姉夫婦(サラ・ポールソン、ヒュー・ダンシー)の家に転がり込むところから始まり、時間軸をシャッフルして、時には”ワンショット”ごとに「カルト集団を逃げ出して姉夫婦の家に身を寄せている現在」と「カルト集団の中で生活していた過去」を行き来しながら、どうマーサが洗脳されていったかを丹念に描いていきます。そして、どうして彼女は逃げるきっかけになる集団の素顔が徐々に明らかになっていきます。

集団生活を始めてまもなくして、マーサはリーダーに犯されるのですが、それは”名誉”なことであると、先輩の女性メンバーから教え込まれます。そして、いつしかマーサ自身も、後輩女性に同じことを教え込む立場になっていったのです。集団との共同生活の中ではセックスは共有するもの・・・マーサは、姉夫婦がセックスに励んでいる最中のベットに「1人では眠れない」と、添い寝してくるという奇妙な行動をしたりします。

ここからネタバレを含みます。

この集団が、一線を超えるような犯罪行為も行っていることを知り、マーサは精神的に壊れていきます。それはある意味、マーサがギリギリのところで理性を保っていたということでもあるのですが・・・それこそカルト集団からすれば裏切りでしかなく、許されない行為でもあります。集団から離れてもマーサの頭の中は、カルト集団のトラウマからは逃れられません。姉夫婦の家を離れて、専門機関に入ることになったマーサ・・・施設に向かう車の背後には、カルト集団の影が迫ってくきていたのです。静かだけど、観る者を恐怖に落とし込むエンディングでありました。

ボク自身は、キリスト教の影響を影響を受けた家庭環境で育ったものの・・・宗教観には乏しくて、どちらかというと”無神論者”かもしれません。仏教に関しても無知で、お墓や仏壇にも強い思いはありません。そんなボクですが・・・一度だけカルト教団に関わったことがあります。

テレビドラマや舞台劇になるほど有名な三姉妹のファッションデザイナーの次女のところで働くことになったのですが・・・彼女の会社はキリスト教をベースにしたカルト的な教会の信者になることを自社で働く人に強要する会社だったのです。まぁ・・・明らかに法律違反の行為なのですが、わざわざ裁判沙汰までにするような人もいなかったようです。ボクだけが納得すれば良いんだから・・・と、真冬の池に頭まで突っ込まれながら洗礼を受けました。ただ、ボクがどうしても受け入れられなかったのは、自分のプロジェクトに関わる外部の会社の人たちまでも、ボクの責任で洗礼を受けさせなければいかないということ・・・それは、どうしてもボクには出来ない事でした。日曜日に真面目に礼拝にも通わないボクは、数ヶ月でクビになりました。

朝礼で”かけ声”をかけたりする会社というのは、ボクにとってはちょっと不気味・・・このような「一体感」の強要って、仕事の効率を上げたり、協調性を高めるとは思うのだけど、ゆるい解釈での”カルト集団”的な恐さを感じてしまうのです。


 「レッド・ステイト」
原題/Red State

2011年/アメリカ

監督、脚本、編集 : ケヴィン・スミス

出演       : マイケル・アンガラノ、カイル・ガルナー、マイケル・パークス、メリッサ・リオ、ジョン・グッドマン

2012年10月27日より「シッチェス映画祭/ファンタスティックセレクション」にて公開




「マーサ、あるいはマーシー・メイ」
原題/Martha Mary May Marlene
2011年/アメリカ
監督 : ショーン・ダーキン
出演 : エリザベス・オルセン、サラ・ポールソン、ヒュー・ダンシー、ジョン・ホークス

2013年2月日本劇場公開

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