2012/07/08

ロバート・アルトマン監督による謎のトラウマ映画・・・シェリー・デュヴァルが生み出した痛々しい”ミリー”に共感してしまうの!~「三人の女/3 Women」~



いよいよブルーレイディスクも普及というタイミングになってから、日本国内版としては初DVD化される作品が続々と発売されています。どうせなら画質も音声も良いブレーレイディスク”化”すれば良いのに・・・という気がするのですが、メーカ側の思惑もあるのでしょう。

作品が制作された時代によって、ビデオだけしか発売されなかった作品というのが結構存在していて、レンタル落ちビデオまでもがプレミア化してしまっていることがあります。そうして”観ることが困難”な作品を、DVDであっても発売してくれるのは嬉しい事ではあります。ただ定価3000円~4000円程度という新作と同等の価格ということが殆ど。来年か再来年には「名作ライブラリー」とか銘打って廉価版で再版して、その後にブルーレイディスクで再発売でもするのだろう・・・と思うと、せっかくの”初DVD化”と銘打たれても購買欲も下がってしまいます。日本でもネット配信も身近になってきたし・・・わざわざDVDやブレーレイディスクを購入するのは、コレクターしかしなくなってしまうのかもしれません。

ロバート・アルトマン監督作品の「三人の女」は、ボクにとっては「トラウマ映画」第一号とも言える作品・・・ジェラルド・バスビーによる不安を煽るような音楽と相まって、記憶から消えない作品なのであります。そして長い間、日本では”観ることが困難”な作品のひとつでもありました。日本国内の劇場公開さえ、作品が製作されてから8年後(1985年)に、ファンのリクエストによって実現したそうです。2006年にアルトマン監督が亡くなられた際に、ミニシアター系での追悼上映や、WOWWOWの追悼放映があったそうですが、その後もDVD化されることはありませんでした。その「三人の女」が、やっと国内初DVD化となりました!(これまた”観ることの困難”だった「クインテット」と同日発売)

社会風刺の効いた皮肉に満ちあふれた群像劇で知られるロバート・アルトマン監督ですが「三人の女」は、ちょっと毛色の違う作品です。イングマル・ベルイマン監督の”人格乗っ取り映画”「仮面/ペルソナ」からインスピレーションを得たと言われる本作・・・ロバート・アルトマン監督いわく「実際にみた夢をもとにした作品」ということなので、観念的な女性を描いたといえるのかもしれません。「1人の女が2人に・・・2人の女が3人に・・・そして、3人の女が1人になった。」というのが、劇場公開した当時の宣伝コピーですが・・・辻褄が合うような、合わないような、不思議な物語であります。

ロバート・アルトマン監督に声をかけられて映画デビューしたシェリー・デュヴァルは、1970年代のアルトマン映画の常連のひとりとなりましたが、主演した映画作品というのは、この「三人の女」ぐらい(「シャイニング」でのジャック.ニコルソンの妻役や「ポパイ」のオリーブ役は”主演”とは言えない)・・・しかし、本作で見事カンヌ映画祭で最優秀女優賞を受賞しています!痩せ過ぎた体型、極端に大きな目、ちょっと出っ歯・・・見ようによっては”モジリアーニ”の絵画から抜け出たような独特の風貌で、お世辞にも”美人”とは言えません。ただ、シェリー・デュヴァルは、この作品だけで、ボクの大好きな女優さんのひとりとして今なお君臨しているのです。

垢抜けないテキサス出身の田舎娘のピンキー(シシー・スペイセク)が、パームスプリングにある老人向けの温泉のサナトリウムに、新人療法士としてやってくるところから映画は始まります。「キャリー」出演直後に本作に出演したシシー・スペイセクは、当時27歳なのですが・・・ティーンエイジャーのようにも見える年齢不詳っぷり。パームスプリングという砂漠地帯の避暑地の温泉施設であるにも関わらず、何とも冷ややかな雰囲気が漂うサナトリウム・・・経営者の医者たちは儲け主義で、従業員たちには高圧的な態度でしか接しないという嫌~な職場なのです。

ピンキーに仕事を教えることになったミリー(シェリー・デュヴァル)は、仕事をキビキビとこなしている先輩療法士・・・何かとトロいピンキーにも親切に仕事の指導をします。一見すると”仕事のできる女”のようなミリーですが、実は自分がどう他者から見られているかを把握していない「妄想女」なのであり、自分に注目を集めていたい性格。ピンキーに親切にするのも、ある意味、優越感を感じたいからのような感じです。ミリーは仕事仲間や近所の人々に親しげに話をするのですが、内容はどうでもいいような内容のない話ばかり・・・チープでインスタントなアメリカンな料理のレシピを、誰彼構わず一方的に話すのは、まるでミリーの世界感が「チープ」で「インスタント」であるかのようで、絶妙です。実際のところ、仕事場や近所では誰もミリーの話なんかには耳を傾けないし、存在さえも忘れられているようなのですが・・・ミリー本人は無視されていることにさえ気にしていない様子で、他人の感情に対して鈍感で、極端に面の皮が厚いと言えるのかもしれませんが。

陰で茶化されるほど嫌われているにも関わらず、男は自分のボーイフレンドになりたがっていると思い込んでしまう・・・第三者からすれば、なんとも痛々しい女であるのですが、ボクはどうしてもミリーを嫌いになれないのです。車のドアにスカートをはさんでしまうような”おっちょこちょい”なところ、ニーマン・マーカス百貨店の通販カタログに喜ぶ世俗的なテイスト、黄色に統一したインテリアデコレーションのセンス、もしも男をお持ち帰りした時のためのスペアのソファベッドなど・・・ミリー自身が思っているほど”素敵”でも”もない彼女を「嫌な女」のひとことでは片付けたくないのです。少なくとも1970年代の後半のウーマンリブ後のアメリカ文化のなかで、ミリーのように”気取ってる”女なんて、いたような気もするので・・・田舎者のピンキーの目に、ミリーが”スタイリッシュな女”に映るのは、理解できないわけでもありません。ミリーのルームメイト募集に飛びついて同居することになり、黄色でデコレーションされた部屋を訪ねて、ピンキーはミリーに「You are the most perfect person I've ever met./私が今まで出会った人の中で、あなたは最も完璧な人」と羨望のまなざしで言います。ミリーにとって、最も望んでいる賛辞の言葉・・・ハニカミながらも笑みを浮かべる得意げな表情に、ボクはどうしてもミリーを嘲笑することができません。また、ミリーのいない間に日記を読んだり、憧れのミリーに近づこうと真似するピンキーも、ある意味、純粋だけに”ストーカー”的な恐さよりも、健気な気さを感じてしまうのです。

ミリーが仕事帰りに立ち寄る酒場「DODGE CITY/ドッジ・シティ」は、店の裏に射撃場があるような”場末”の店。仕事場や近所では無視されているミリーですが、お店のオーナー(ミリーの暮らすアパートの管理人も勤めている)のエドガー(ロバート・フロンティア)からは、”女性”として見られているようです。彼は、カーボーイファッションをしたアル中で、単なる浮気したがっているスケベ親父でしかありません。エドガーの妻ウィリー(ジャニス・ルール)は、臨月近くにも関わらず、真っ昼間の炎天下で奇妙な碧画をプールとかに描き続けています。ウィリーは「三人の女」の1人らしいのですが、ミリーやピンキーと比べて物語のなかの存在感は薄め・・・台詞も殆どありません。なお、ウィリーが書いている設定となっている本作のイメージシンボルともいえる壁画は、ボディ・ウィンドという男性アーティストの作品で、この映画の完成から数年後にロンドンで不慮の事故で亡くなったそうです。

ミリーは、元ルームメイトのディードラ(ビバリー・ロス)と彼女の男友達らを招待したディナーパーティーを企画するのですが・・・チーズ・オン・クラッカー、シュリンプカクテル、パン生地を巻いたソーセージ、チョコレートプディングなど、如何にもアメリカの田舎者が、洒落たパーティーフードと思い込んでいるようなオードブルを振る舞おうとしているところが、ミリーらしい!完璧に準備しようとするミリーに対して、招待されているディードラや男友達らは、ドリンクに立ち寄る程度にしか思ってないという悲しい温度差・・・彼らにあっさりとディナーパーティーはキャンセルされてしまいます。ミリーはキャンセルされた理由をピンキーに押し付けて、さっそと出掛けてしまいます。まぁ、出掛けるといっても「ドッジ・シティ」ぐらいしか行くところがないのですが・・・。

夜中になって酔っぱらって帰宅したミリーは、寝ているピンキーを叩き起こして、リビングルームのソファベッドに寝るように命令します。未リーが連れ込んだのは飲んだくれたエドガー。ミリーが連れ込める男はエドガーぐらいしかいないという悲しい現実・・・ミリー自身も、そんな”本当の自分”の卑しい姿を嫌悪してるかのようです。だからこそ・・・ピンキーに対しては、威圧的に「ひと言だって言い返すんじゃないわよ!何も分かっていないくせに!文句があるなら、いつでも出て行けば良いのよ!」と、ヒステリックに怒鳴り散らすしかないミリーの「痛さ」に、ボクは共感を覚えてしまうのです。ショックを受けたピンキーは、その夜、アパートの2階からプールに飛び込み自殺を図ってしまうのです。アパートの住人達に救われたピンキーは命を取り留めたものの、昏睡状態になってしまいます。

目が覚めたピンキーは、ミリーのことだけは認識するのですが、古い記憶を失ってしまったようなのです。わざわざ、テキサスから訪ねてきた両親のことを、まったく知らない他人だと言い張ります。ただ、の両親というのが奇妙で、ピンキーの親としては、どうみても老け過ぎ・・・血縁関係がピンキーとあったとしても、祖父母ではないかと思えます。実際に父親を演じたジョン・クロムウェルは、当時すでに80歳を超えていたというのだから、かなり不自然なキャスティングではあります。もしかしたら、この二人は本当の両親ではなくて、ピンキーの言うことの方が正しく思えてしまうほどです。それに、この両親・・・ミリーの部屋に泊めてもらっているにも関わらず、夜ベットで抱き合ってエッチまでしてしまうのだから、ミリーでなくてもドン引きしてしまいます。

退院後、ピンキーが別人格になってしまったように、化粧も服装も派手になり、近所の男たちやエドガーらを、手玉にとる”あばずれ女”のように振る舞い始めます。それでも、ミリーはピンキーの世話役をかって出て、リハビリに協力しようとします。ピンキーを自殺までに追い込んだ罪悪感からに違いないのですが・・・ミリーの世話の焼き方は「献身的」というよりも、子供を庇護しながら、実はコントロールしようとする母親のようにも感じられるのです。ピンキーがミリーの社会保障番号(戸籍のないアメリカでは非常に重要な番号)を通知していたことを経営者から責められて、ピンキーを庇いきれなくなったミリーは、遂にはサナトリウムの仕事を辞めてしまうことになります。そこまでミリーがしているにも関わらず、ピンキーはは反抗期の娘のように、ミリーの車を勝手に使ったり、エドガーを部屋に連れ込んだりと”やりたい放題”です。さらに、ピンキーはミリーになりきったかのように勝手にミリーの日記を書いたりし始めるのです。

本作は”人格入れ替わりの物語”とボクは思っていたのですが・・・単純に、そうとは言い切れないところもあるのです。確かに、前半と後半では、ピンキーとミリーの力関係が逆転したようだし、ピンキーがミリーにになりきったようなところもあります。しかし、後半もミリーは相変わらずピンキーをコントロールしようとしています。また、ピンキーの変化した人格は、ミリーに入れ替わったというよりも、ミリーがなりたくても、なれなかったタイプの女だったりします。人格が変わってからはピンキーは、あだ名のピンキーと呼ばれることを嫌うようになります。ミリーもピンキーも名前のフルネームは「ミルドレッド」で、実は同じ名前をもっていた2人・・・ピンキーは「ミルドレッド」と名乗り始めるようになるのです。

「ミルドレッド」という名の1人の女が、「ミリー」と「ピンキー」という「1人の女が2人の女に・・・」ってことなのでしょうか?「2人の女が3人に・・・」というのはウィリーを加えてなのか、それともピンキーの別人格なのでしょうか?

ここからネタバレを含みます。

ピンキーがみているのか、ミリーがみているのか、よく分からない夢のシークエンス後、ピンキーはあっさりと元の人格に戻ってしまいます。そこへ部屋の合鍵を使ってミリーとピンキーの部屋に侵入してきたのは飲んだくれのエドガー・・・それも陣痛の始まった妻のウィリーをひとりで放ったらかしにしたままだというのです。ミリーはベットに横たわって今にも赤ちゃんが生まれそうなウィリーに寄り添い、ピンキーに医者を呼ぶように伝えます・・・しかし、元の人格に戻ってしまったピンキーは呆然と立ち止まったまま。生まれた男の子は産声もなく・・・死産でああるという不吉な結果となります。出産中のウィリーのうなり声が断末魔の声のようにも聞こえて、出産の歓びなど微塵と感じさせないトラウマになりそうなシーンです。血だらけの手を振るわせながら部屋から出てきたミリーが、立ちすくんでいるピンキーを発見して顔を平手打ちにしたところで、いきなりエンディング場面に変わります。

ウィリーの死産から、どれほどの日にちが経ったのか分かりませんが・・・「ドッジ・シティ」で、ミリーとピンキーとウィリーの三人の女は同居しているようです。エドガーは銃の事故で命を落としたらしいことが、ソフトドリンクの配達員との会話で明らかになります。ミリーは眉毛を剃り落として、禁欲的な雰囲気を漂わせています。ここでは、ピンキーは「ミリー」と呼ばれていて、ミリーのことは「ママ」と呼んでいます。ウィリーはまるで隠居したおばあさんのよう・・・三人の女は「祖母=ウィリー」「母=ミリー」「娘=ピンキー」という家族のようになったということなのでしょうか・・・?

「じゃがいもの皮をむいて鍋に入れておきなさい」と命令するミリーに、ピンキーは「ママ、鍋はどこ?」と尋ねます。「そんなこと、答えないわよ」と冷たくあしらうミリーに、ウィリーが「なんで、あなたはそんなに厳しいの?」とつぶやくところで映画は終わります。

エドガーが、本当に銃の事故で死んだのかは疑問が残ります。もしかするとエドガーはミリーに殺されたのかもしれません。いずれにしても、残されたウィリーも、元の人格を取り戻したピンキーも、ミリーに頼って生きていくしかないほど”自我”を失ってしまったようだということ・・・それが「3人の女が1人になった。」ということなのでしょうか?

本作はロバート・アルトマン監督の脚本によるオリジナル作品でありますが・・・ミリーというキャラクターの構築にはシェリー・デュヴァルの功績が非常に大きいそうです。本作に使われているミリーの日記、ミリーが話すレシビの数々は、シェリー・デュヴァルによる創作だそうで、台詞の殆ども彼女によって書かれたということです。奇妙な物語の中で、ミリーの台詞や仕草だけは妙にリアリティを感じさせられ・・・シェリー・デュヴァルという女優なしでは、ミリーというキャラクターの存在感も、「三人の女」という傑作も生み出されなかったことは確かだと思います。ロバート・アルトマン監督が「解釈は観る人に任せる」と語っている本作の着地点は、正直ボクにはよく分かりません。

ただ、謎めいた物語だからこそ、作品が作られて35年経った今でも時代の変化にも色褪せすることなく「三人の女」とシェリー・デュヴァルの生み出した”ミリー”に、ボクは惹かれ続けるのかもしれません。




「三人の女」
原題/3 women
1977年/アメリカ
監督、脚本、製作 : ロバート・アルトマン
出演       : シェリー・ディヴァル、シシー・スペイセク、ジャニス・ルール、ロバート・フロンティア、ルース・ネルソン、ジョン・クロムウェル、ビバリー・ロス


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