2014/12/30

私小説を装った生臭~い自慢話は痛い・・・達観したかのような”自己肯定”と説明過多の”ウザさ”は相変わらずなの!~田中康夫著「33年後のなんとなく、クリスタル」~



先日、近所の本屋の新刊コーナーで田中康夫著の「33年後のなんとなく、クリスタル」が平置きされていたのですが、積まれた高さは他の本よりもずっと低くなっていて結構売れている様子・・・店頭には3冊ほどしか残っていなくて、ボクは思わず購入してしまいました。しかし、お金を払って購入したことを後悔するだけでなく・・・読むことに費した時間、読後の本の置き場所まで後悔させるような(ボクにとっては)一冊でありました。

前作「なんとなく、クリスタル」が出版されたのは1981年のこと(発表されたのは1980年)・・・当時、18歳のボクは小説に書かれていたような”クリスタル”な生活をしていたわけではありませんでしたが、都内にある私立の付属高校に通っていたこともあり、小説にでてくるお店などの固有名詞には多少馴染みもあって、妙に身近に感じたものでした。


当時の若者文化というのは、すでに古き良き”昭和”という感じではなく、学生運動の反動からなのか”真面目”や”努力”が格好悪い「しらけ世代」の時代になっていたし、国内海外のブランドが浸透し始めて、バブル時代を先取りしたような”ブルジョワ”な若者も結構いたのです。

ベストセラーとなった「なんとなく、クリスタル」は、単行本の発売直後に読みましたが、物語が頭に入ってこないほど退屈な小説だと思ったし・・・文壇からは「今どきの若者はなんっとらん!」的な酷評されていたような記憶があります。しかし、おびただしい数の注釈が小説本文を凌駕するほどの分量という確信犯的なギミックは、まるで当時流行り始めたカタログ雑誌みたいで、小説として新鮮なアプローチというのが、当時の一般的な受け取られ方だったかもしれません。

それまで「しらけ世代」という”くすんだ”印象しかなかった世代を、「なんとなく、クリスタル」というキラキラ感と曖昧さの混在した言葉で表現したことで、バブル景気のムードを予見したと言われるでこともありますが・・・ブランド志向を冷ややかに批判しているようなシニカルさを、ボクは深読みしていました。

また、小説の最後に、物語との関連がないような出生率のデータをポツンと記載して、やがて訪れる日本社会に超高齢化社会の警告しているところは、物資的な上昇志向の無意味さを訴えているようにも読み取れました。社会的な問題提議するような統計データを持ち出してくる発想が、後に田中康夫氏が政治家に転向する布石であったとは、誰も想像だにしませんでしたし・・・今振り返ってみれば、田中康夫を(ボクを含めて)随分と好意的に解釈していたような気がします。


「なんとなく、クリスタル」発売の数ヶ月後に、ボクは留学のために渡米することになります。まだ、メディアでの扱いも新聞記事の”話題のひと”程度のことで、田中康夫氏の”ひととなり”が世間バレる前のことです。その後の1980年代の田中康夫氏のメディアでの活躍ぶりというのは、ボクは一切知らないまま20年近く過ごすことになるのです。

ボクが留学した1980年代にはインターネットはなかったし、日本のテレビ放送もNHKニュースぐらいだったので、若者文化の情報源は雑誌や書籍しかありませんでした。当時、ボクがよく読んでいたのは、雑誌の「宝島」「流行通信」と、橋本治、林真理子、田中康夫のエッセイ本・・・考えてみると、かなり偏っていた情報だばかり吸収していたような気がします。

田中康夫氏のエッセイは、流行っているお店やデートでのマナーを指南する内容が多かったので、今改めて読んでみると「おしゃれな文化人気取りが痛々しい」としか思えませんが・・・1980年代というのは、「ポパイ」「ホットドックプレス」など全盛の時代で、この手の記事が若者向け雑誌の主流でもあったのです。

その後、ボクの中で田中康夫氏は”過去のひと”になっていったのですが・・・長野県知事になったことには大変驚きました。2001年に日本に帰国して、メディアを通じて観たリアルの田中康夫氏の印象は、ボクが「なんとなく、クリスタル」やエッセイ本から感じていたイメージとはかけ離れていて・・・小太りの奇妙なオッサンという感じでした。


相手を見下して論破しようとする語り口は嫌いだし、妙に可愛いモノ好きをアピールするところも気持ち悪く、フェミニストな発言のわりにねちっこい執着を感じさせる・・・ウザいキャラクターにドン引きしてしまったのです。それ故、政治家として興味を持つ気にもなれず、田中康夫氏の政治的な主張は、ボクはよく知りません。ただ、県知事を2期務めて、その後衆議院議員を5年も務めたのだから、彼の支持者というのは当時は多かったのでしょう。ボク自身は、田中康夫氏をメディアで見かけるたびに、生理的に耐えきれなくなっていったのです。

それにも関わらず「33年後のなんとなく、クリスタル」を購入してしまったのは・・・「なんとなく。クリスタル」の続編って、どのように成り立つのだろうという興味があったからにすぎません。帯に書かれた著名人たち(浅田彰、菊池成孔、齋藤美奈子、壇蜜、なかにし礼、浜矩子、福岡伸一、山田詠美、ロバート・キャンベル)の絶賛の宣伝文句が妙に多いところが・・・なんとも胡散臭い。それも(例外はありますが)アカデミックな著名人たちを並べてしまったところが、純粋に小説としてよりも、文化的、経済的、社会的にエポックメイキングな作品だと、自負しているようでゲンナリさせられてします。

「33年後のなんとなく、クリスタル」の本文は、前作の倍以上の分量・・・肝である”注釈”も(前作ほどではないにしても)本文の半分ほどの分量あるのですが、本作はその内容が酷いのです。前作は、良くも悪くも独断による風俗的な注釈が、興味深いところもあったのですが・・・本作では、統計データを持ち出しての政治的な発言が、妙に目立ちます。また、分かる読者だけが分かるようなキーワードだけ投げかけている注釈は、上から目線の厭味しか感じさせません。読者をバカにしているのかと思ったのは、色の注釈がCMKYの数値”だけ”を記述しているところ・・・色を正確に伝えようという意図なのかもしれませんが、読者は印刷工場ではありません。言葉でとう色を伝えるのかが、小説家としての腕の見せどころではないでしょうか?

さて、本作がある意味、衝撃的(?)なのは・・・「なんとなく、クリスタル」には実在のモデルがいたということを前提としているところであります。本作の主人公ヤスオは、リアルに田中康夫本人ということもあって、生理的に田中康夫氏という個人を受け入れられないボクのような読者にとっては、心底気色悪いことになっているのです。ヤスオと「なんクリ」に登場した女性の33年ぶりの再会のドキドキ感(?)が、お得意のスノッブな世界観を背景に繰り広げられるわけですが・・・何度も何度も過去を振り返る会話やモノローグで語られるのが、達観したかのような自己肯定を貫いた田中康夫氏による”自分史”なのだから「どんだけ自分好きなんだよ!」とツッコミたくなってしまいます。

ボク自身を含め、年齢を重ねていくと過去を振り返ってしまうのはアリガチなことではありますが・・・懐かしい郷愁を覚えるというのではなく、現在のアイデンティティーが”過去”に依存しなければ成り立たないのは、どこかしら哀れに感じられてしまうもの。「こんな有名人を知っていた」「こんなスゴイ仕事した」「こんな通な音楽を聞いていた」「こんな伝説の場所に出入りして遊んでた」などという昔話は、おそらく(誇張はあったとしても)事実なのでしょうが・・・過去の自分に固執しているようで、なんとも痛々しく感じられます。

人生の経験を重ねていくと、こだわりも増えてくるのは当然のこと。人生を豊かにするために、自分自身に対して物質的にも、精神的も投資し続けることは素敵なことではあるのですが・・・いくつになっても強い「我」を主張し続けて、欲望や関心のベクトルが自分に”だけ”向いているのは、逆に何か欠落しているようにも感じさせるのです。どれほど、その人が輝かしい過去の経歴があろうとも、素晴らしい仕事を成し得た人であっても、まだ何かを埋め合わせなければならないことを垣間見せてしまって・・・過去の栄光の”ほころび”さえ露呈させてしまいます。

本作の会話部分は不自然なほど説明過多・・・統計的な数値や固有名詞を持ち出して、政治家田中康夫としての弁明(?)を主人公ヤスオに語らせているのですから、支援者ではない限り”ウザい”こと、この上ないのです。また、聞き手’(?)として登場する女性たちも、まるで深夜のテレビ番組「有田のヤラシイハナシ」でインタビュー形式で自慢を披露するようなコーナーのみたいに田中康夫氏の主張したいことを引き出すためだけの台詞で、もはや滑稽にしか思えません。読み終わることが苦痛なほどの面白みのない物語で・・・(ボクだけかもしれませんが)話の筋が全然頭に入ってこなさは、田中康夫の小説”ならでは”と再確認してしまった次第です。

本作の最後には、前作「なんとなく、クリスタル」と同じように、日本の「出生率低下」と「高齢化」を危惧する統計数値が記述されているのですが・・・その深刻さに反して、本文の登場人物たちのライフスタイルは、まったくもって羨ましくもない薄っぺらい「なんとなく、クリスタル」からの成長のなさに、違和感を感じてしまいます。ある意味、本作は、読者それぞれの人生観を浮き彫りにするような”踏み絵”のような小説とも言えるわけで・・・本作を高く評価する人とボクは、きっと相容れないところがあると確信できてしまうのです。

私小説を装った政治活動(?)は”政治家”として発言すべきことであるし、過去の女性関係や知識の自慢話は「ペログリ日記」のようなエッセイ(ブログ?)で書けば十分なこと・・・わざわざ「小説家」として復帰して出版するべきほどの内容だったのでしょうか?

「33年後のなんとなく、クリスタル」は、田中康夫氏の自己認識が、如何に世間とズレているかを明らかにしてしまっていて、政治家としての資質にさえ疑問を感じさせます。「墓穴を掘った」としか言いようのなさに・・・ただ、失笑するしかありません。


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2014/12/04

エリザベス・テイラー最後の主演映画はミュリエル・スパーク原作のサイコミステリー・・・ヒステリー女優(?)としての集大成的作品なの!~「サイコティック/Driver's Seat (Identikit)」~




エリザベス・テイラーの人気というのは、どうも日本ではイマイチ・・・「最後のハリウッドスター」「映画史上最高の美女」という”アイコン”として映画ファンには受け入れられても、おしゃれ感に乏しく女性が憧れる”往年のスター女優”というイメージはありません。

イギリス生まれのエリザベス・テイラーは、ハリウッド映画で子役として映画デビュー。「緑園の天使」(1944年)で12歳らしからぬ完璧な美貌で、一躍人気の少女スターとなります。その後「若草物語」(1949年)で若手スター女優の仲間入りをして、18歳で「花嫁の父」(1950年)、19歳で「陽のあたる場所」(1951年)に主演しているのですから、かなりの早熟です。

20代半ばには「熱いトタン屋根の猫」(1958年)や「去年の夏、突然に」(1959年)で欲求不満の若妻(!)という”当り役”と出会い、28歳で売春婦を演じた「バターフィールド8」(1960年)で、最初のアカデミー主演女優賞に輝き、演技派女優としての地位も確立します。ハリウッド史上の制作費を投入して大コケした悪名高き(?)「クレオパトラ」(1963年)の主演だって、撮影は30歳の頃・・・「ヴァージニア・ウルフなんてこわくない」(1966年)では、役作りのために(?)34歳でブクブク中年太りして、倦怠期の夫婦を当時実際に夫婦だったリチャート・バートんと演じて、2度目のアカデミー主演女優賞に輝いたのです。

ただ、その後はヒット作品に恵まれず、1970年代半ば以降は、オールスター作品に華を添えるような出演だったり、テレビシリーズのゲスト出演だったり、お飾り的な立ち位置での「カメオ」ばかりになっていきます。いつしかエリザベス・テイラーは”映画女優”としてよりも、私生活(離婚再婚の繰り返し)や日々の動向(エイズ基金やセレブ香水発売のパイオニア)で注目される”元ハリウッドスター”になっていったのです。

エリザベス・テイラーが”ヒロイン”=主演の最後の劇場用映画というのは、42歳の時に主演した「サイコティック/Driver's Seat (Identikit)」(1974年)という日本では殆ど知られていない作品です。劇場用映画の出演は「青い鳥」「リトル・ナイト・ミュージック/Little Night Music(日本未公開)」「クリスタル殺人事件」などがありますが、いずれも主役ではありません。(テレビ映画やテレビシリーズでは、いくつか主役を演じている作品あり)

「サイコティック」は公開当時(そして、その後も)、エリザベス・テイラーの長い映画キャリアの中で、最も酷い作品と評されてしまいます。現在の感覚だと”42歳”という年齢は、まだまだ女優として活躍できる年齢だと思うのですが・・・当時(1970年代)は、保守的なハリウッドシステムから生まれたエリザベス・テイラーという女優の存在自体が、どこか古臭く感じられてしまう時代でもあったのかもしれません。

本作は、日本では劇場公開さえされず、1980年代のビデオレンタル全盛期に、エリザベス・テイラーのセクシーなシーン(乳首が見えるブラジャー姿や着衣状態でのマスターベーションやセックスシーンなど)を売りにした”イロモノ的扱い”で、パワースポーツ企画販売という怪しい会社からレンタル用としてリリースされたのみではあります。


「熱いトタン屋根の猫」「去年の夏、突然に」「ヴァージニア・ウルフなんてこわくない」「禁じられた情事の森」「夕なぎ」など、欲求不満の女性を演じさせたら右に出る者はいない(!)と思えるほど、演技派転向後のエリザベス・テイラーの独壇場・・・なんがなんだか分からないけど苛々しているエリザベス・テイラーの”ヒステリー演技”が大好物なボクのとって「サイコティック」は、好きな作品のひとつなのであります。

原作はイギリスの作家ミュリエル・スパークの「運転席/Driver's Seat」という1970年に発表された小説。30代でオールドミスという価値観は、随分と未婚女性に対して厳しいと思えてしまいますが・・・それも1970年という時代の感覚だったのかもしれません。日本語訳は映画化される前の1972年に、早川書房から出版されているのですが、その後ずっと絶版・・・ミュリエル・スパークという作家は、評論/研究書って数多く出版されているわりに、肝心な小説は殆ど日本では絶版というありさまです。

しかし、最近(2013年11月)になって、日本独自編集の短編集「パン,パン!はい死んだ」が出版されているので、もしかすると日本でミュリエル・スパークの人気が再熱しているのかもしれません。現実と幻想が入り交じった不条理なブラックユーモアで人間の愚かさを暴いていくところは、今流行の”イヤミス(後味の悪いミステリー)”の元祖のようでもあり「湊かなえ絶賛」という帯の宣伝文句も納得。そして何より・・・悪意に満ちているのは”登場人物”よりも”書き手”というところが”ミソ”なのです。

さて「運転席」の映画版となる「サイコティック/Driver's Seat (Identikit)」は、エロティック映画”もどき”(?)な作品で知られるジョゼッペ・パトローニ・グリッフィ監督(「さらば美しき人」「悦楽の闇」「スキャンダル・愛の罠」)によるイタリア映画・・・サイコミステリー仕立てのエロティックを期待すると、あっさりと裏切られるとは思いますが・・・エリザベス・テイラーというハリウッドスターの主演映画としては、ストレートな性的表現や露骨な台詞があったりして、ある意味”意欲作”であったことが伺えます。また、アンディ・ウォホールがちょい役で出演していることも、製作当時は話題だったようです。

キャリアウーマンのリズ(エリザベス・テイラー)が、自分を殺害してくれる男性を求めてバケーションにでかけて、望みどおりに殺されるというのが本作の物語(これはネタバレというよりも、あらすじとして書かれている)・・・どうして彼女が短気なのか?何故死のうとしているのか?働くことに疲れているのか?恋愛で悩んでいるのか?などの疑問に対して確定的な答えは一切出さずに、意地悪い視点で彼女の旅の様子と、彼女の死後に彼女との関わりを警察の捜査の様子を、時間軸を行き来しながら描いていきます。主人公のリズは勿論、彼女以外の登場人物たちの行動や言動も不可思議・・・観客は奇妙な世界観に身を委ねるしかありません。また、全編に流れる現代音楽のピアノの旋律が妙に不安を高めます。

何故か、冒頭からいきなり苛々しているリズはブティクの販売員に怒りをぶつけます。空港で荷物チェックで止められれば毒づくし、免税店では店員にイヤミで食って掛かるし、ホテルのメイド相手にかんしゃくを起こします。と思えば・・・飛行機の中でナンパされた変態オヤジをなんだかんだで相手にしてみたり、行動は支離滅裂。テロに巻き込まれて街中で爆弾が爆発したり、奇妙な災難にも遭遇しますが、彼女が求めていた男性をたらし込むことに成功します。そして、雑木林の中で男を誘惑して「殺害されること」を懇願して、望みどおりに彼女は死ぬのです。ハッキリとした理由もなく死ぬことだけを求める旅・・・その道中に起こることも、また不条理であります。そして、登場人物たちの台詞の数々は、滑稽であり、時には哲学的でもあり、やはり堂々巡りな不条理なのです。


試着中のドレスが新素材でシミが付かないことを販売員が伝えると、リズは急に怒りだし販売員に喰ってかかります。
「Stain resistant dress? Who asked for a stain resistant dares?/シミのつかないドレス?誰がシミのつかないドレスを頼んだのよ?」

空港の本屋さんで上品な婦人が、リズに突然尋ねてきます。
「Excuse me. Which do you think more exciting? Sadomasochist one?/ごめんなさい。どちらの方が面白いかしら?サドマゾヒストの方かしら?」

テロリスト警戒中の空港で荷物係に止められたリサは、苛立って毒づきます。
「This may look like a purse but it is actually a bomb./これはハンドバッグみたいだけど、本当は爆弾なのよ!」


飛行機の中で隣に座った脂ぎった中年男にリズは厭味たっぷりに対応します。
「You look like Red Riding Hood's grandmother. Do you want to eat me?/あなた赤ずきんちゃんのおばあさんみたいね。私を食べたいの?」

リサをナンパした中年男は意味の分からないアプローチでリズを誘います。
「I have to have an orgasm a day for my microbiotech diet./マイクロバイオテックの食事療法には、一日に一度のオーガズムが必要なんだ。」

そんな中年男に対してのリズの返答は、名台詞(?)です。
「When I diet, I diet and when I orgasm, I orgasm! I don't believe in mixing the two cultures!/ダイエットの時はダイエット、オーガズムの時はオーガズム。二つの文化を一緒にすることはしないのよ!」


リズは徐々に不条理な思考は堂々巡りです。
「I sense a lack of absence /不在しているものが欠乏しているの!」

リズの痛々しさは哲学的でもあるのです。
「I feel homesick for my own loneliness/自分の淋しさにホームシックになるわ」

遂にリズは理想の男性を誘惑することに成功し、彼女を殺害することを懇願します。
「Just Kill me! Then you love me!/ただ殺して!それから私を愛して!」

”オースドミス”というステレオタイプの概念があった時代に、未婚女性が感じている(感じるべき?)と思われていた漠然とした虚無感や孤独感をヒシヒシと感じさせます。この映画が製作された1970年代中頃は、不条理さこそ日常に潜む”恐怖”と考えられていた風潮があり、似たような雰囲気のスリラーというのが多く制作されていました。公開当時は批評家から酷評されたこともあり、日本では劇場未公開の本作がエリザベス・テイラーの最後の主演映画作品となったことは残念なことではあるのですが・・・年月が経ち製作時とは違う価値観で本作を観ると、美人スター女優の顔でなく、ヒステリー女優(?)という”顔”もあるエリザベス・テイラーの「集大成」だと、ボクには思えるのです。

「サイコティック」
1974年/イタリア
原題/Driver's Seat (Identikit)
監督 : ジョゼッペ・パトローニ・グリッフィ
原作 : ミュリエル・スパーク「運転席」
出演 : エリザベス・テイラー、イアン・バネン、グイド・マンナーリ、モナ・ウォッシュボーン、ルイジ・スカルツィーナ、アンディ・ウォーホル
日本劇場未公開、過去にレンタルビデオあり


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2014/11/14

二匹目のドジョウならぬ三匹目のドジョウを目指す!?・・・日本市場では成功しているとはいえないフィギュア”課金ゲーム”「ディズニー・インフィニティ」「スカイランダーズ」を任天堂「amiibo/アミーボ」は超えられるか?


2014年12月6日・・・任天堂から近距離無線通信(NFC)を使用してゲームと連動させるフィギュア「アミーボ/amiibo」が発売されます。(このブログを書いている時点では未発売)「アミーボ」は、WiiUのゲームパッドや新型の3DSにかざすと、キャラクターがゲーム内に出現するというユーザーにとっては「夢」のような仕組みであり、メーカー側にすれば巨大なドル箱市場を構築できる可能性を秘めた「課金ゲーム」の仕組みのひとつです。

追加要素を別に販売する「課金ゲーム」というのは、ゲーム創成期からいろいろとありますが・・・最近流行っているのは「妖怪メダル」でしょうか?妖怪ウォッチに装着したり、妖怪メダルランドのサイトで使ったり、妖怪おみくじ神社でバトルしたりと、さまざまな遊び方はあるようですが・・・3DS版「妖怪ウォッチ」にQRコードを読み込ませることでゲー内のガチャを回せたりもします。ただ「妖怪メダル」はプラスチック製のメダルにシールを貼付けた”だけ”もの・・・”モノ”としての価値はないに等しい代物と言っても良いかもしれません。カプコンの3DS版「ガイストクラッシャー」も、属性のあるギア、ミッション、経験値などが追加できる「QRコード」が別売りという「課金ゲーム」・・・ただし、こちらは爆死レベルの売り上げ。ゲーム自体の評価は高いものの、まったく売れていないようで、在庫が投げ売りされています。

フィギュアという付加価値もつけた「課金ゲーム」の先駆者としては・・・読み取り機器を付属させてクロスプラットフォーム(海外ではWii, Wii U, 3DS, PS3, PS4, Xbox360, Xbox One,、日本ではWii, Wii U, 3DS, PS3)で展開しているアクティビジョンの「スカイランダーズ」シリーズ、バンダイの「ディズニー・インフィニティ」(海外ではWii, WiiU, 3DS, PS3, PS4, Xbox360、日本ではWiiU, 3DS)が、既にあります。


アクティビジョンの「スカイランダーズ/Skylanders」シリーズは、第1作の「スパイロの大冒険/Spyro's Adventure」(アメリカでは2011年に発売)が、スクエアエニックスがローカライズ、トイザらスの専売という形で、昨年(2013年)7月に日本でもWii版、Wii U版、3DS版が発売されましたが・・・日本市場で人気があるとは言い難いようです。

「スカイランダーズ」のキャラクターは「スパイロ・ザ・ドラゴン」というプレイステーション用ゲームから派生したオリジナル・・アメリカのアニメっぽいキャラクターデザインは、好き嫌いが分かれそうな気がします。子供向けということもあってかゲームの難易度は低めなのですが・・・カワイイだけでない、ちょっとクレイジーなキャラクターはマニア受けももしそうです。


「スカイランダーズ」を遊ぶために、そこその金額を投資しなければならない要因のひとつは、フィギュアに属性があるという仕様かもしれません。ゲームを進行するためには8種類の属性(火、水、風、土、まほう、ライフ、マシン、アンデッド)を持つフィギュア(ノーマル版で全32種類)が、最低でも1体づつは必要(スターターパックに含まれない属性のフィギュア5種類ある)・・・スターターパックだけでは、ゲームの一部しか遊べません。別売りのアドベンチャーパックを購入しないと行けないエリアやフィギュア(バラ売りなし)があるのです。

しかし、日本ではアドベンチャーパックやフィギュアトリプルパックの出荷がそもそも少なく、販売もほぼ終了・・・「本気で売る気あったの?」であります。日本では「アミーボ」発売を控えて、トイザらスの店頭やネットストアでは、スターターパック、シングルフィギュア、トリプルパック3種、アドベンチャーパック1種の在庫を半額セール中(2014年11月現在)・・・今後、スカイランダーズシリーズの日本向けのローカライズ開発は”しない”ということなので、購入を考えているなら「今でしょ!」です。

「スカイランダーズ」は、アメリカやヨーロッパでは大変人気(主に小学生の男の子に?)らしく・・・2012年には「ジャイアンツ/Giants」(大きくなって戦う)、2013年「スワップ・フォース/SWAP Force」(上半身と下半身を組み合わせる)、2014年「トラップ・チーム/Trap Team」(敵モンスターをキャプチャーして戦わせる)と、毎年新しいシステムをもった新作が発売されています。そのたびに新しい仕様のフィギュアが加わっていくという・・・なんとも”親泣かせ”なシステムなのです。

ゲームの追加や記録機能は、ネットゲームならばデータのアップロード/ダウンロードで済むことなので、今どきフィギュアというアナログな装置である必然性はないのですが、物理的に存在するフィギュアであるからこそ、”コレクター魂”を揺さぶるのでしょうか?特に「スカイランダーズ」シリーズは「レア・フィギュア」の数があまりにも多く・・・コンプリートするのは非常に困難です。


トイザらス専売、ゲーム機本体にのみ同梱、トイフェアにて配布、懸賞でプレゼントなど・・・希少価値を高めてしまう要因はあるのですが、同じキャラクターのフィギュアでも世代があったり、シルバー、ゴールド、グロー・イン・ザ・ダーク、クリスタル、メタリック、レジェンダリー、ダークなど、さまざまな仕様の「レア・フィギュア」が存在します。そのため「ebay」で、トンデモナイ価格(1体数万円とか)で取引されているモノもあったりするのです。シリーズの下位互換性はあるので、手持ちのフィギュアは無駄にはならないようですが・・・全4シリーズの(レアを含めた)コンプリートを目指そうものならば、軽〜く100万円以上の投資は必要かもしれません。

「スカイランダーズ」シリーズが欧米で売れたのには、フィギュアを介してリアルな生活圏をネットワーク化させたというがあるかもしれません。「スカイランダーズ」を持っている友人と、自分が育てたキャラクターで”協力プレイ”を可能にするというのは、インターネット上の見知らぬ誰かと繋がるよりも(特に対象としている小学生には)安全とは言えるのですから・・・。また近年、子供に大金を投じることが親のステイタスのようになってきているアメリカでは、多額の投資を必要とするフィギュアの「課金ゲーム」は、親の豊かな財力の”証”になっているのかもしれません。


「スカイランダース」によって本格的に開拓されたフィギュアによる「課金ゲーム」市場に、二匹目のドジョウを狙って参入したのが、2013年7月アメリカで発売された「ディズニー・インフィニティ/Disney Infinity」であります。なんたって・・・豊富なキャラクターの宝庫であるディズニーなのですから、爆発的に売れて当然です。(と日本でも思われていた?)

ボクのような”おじさん世代”に馴染みのあるクラシックのディズニーキャラクターよりも、比較的、最近制作されたピクサー作品からのキャラクターが多く・・・「MR.インクレラブル」「モンスターズインク」「パイレーツ・オブ・カリビアン」「トイストーリー」「ローン・レンジャー」「カーズ」「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」「シュガーラッシュ」「塔の上のラプンツェル」「アナと雪の女王」「フィニアスとファーブ(ディズニーチャンネルのアニメ)」というラインナップ。唯一クラシックなキャッラクトートしては「ファンタジア」の魔法使いの弟子からミッキーマウスがあります。


すでに、アメリカでは今年(2014年)9月に「ディズニー・インフィニティ 2.0」が発売されていて、ディズニー社が買収したマーベルコミックスからのキャラクターが大量導入されています。ドナルドダックやティンカーベルの往年のディズニーキャラクターも登場するようですし・・・将来的には、制作権利を買収した「スター・ウォーズ」シリーズのキャラクターも登場するかもしれないので、これまでのどちらかというと”お子様向け”から脱却して、ますます裾野は広がりそうです。

ボクは”3DS版”「ディズニーインフィニティ」購入後、ひとつふたつとフィギュアを買い足していたのですが、しばらくして”WiiU版”も購入してからハマり・・・フィギュアとプレイセットを買い揃えました。しかし「ディズニー・インフィニティ」には、フィギュアだけでなく(!)キャラクターをパワーアップさせたり、ゲーム内でのアイテムを追加したりする”パワーディスク”というオプションが用意されており・・・さらなる課金への罠が待っています。

パワーディスクはランダムな”くじ”の2枚単位での販売(各500円くらい)という”姑息な”パッケージング・・・袋を開けてみるまでは何が入っているか分かりません。いくつか”レア”もあるのでコンプリートするためには、重複覚悟で購入することになります。シリーズ1に20種、シリーズ2に20種、シリーズ3に17種、”トイザらス”専売の10種の計67枚が存在しているようです。パワーディスクのコンプリートセットが、ebayなどではプレミア価格で取引されていることは言うまでもありません。


2000円以下で投げ売りされている”3DS版”は、すごろく形式のミニゲーム集という”ガッカリ”仕様なので、どちらかの「ディズニーインフィニティ」を購入するならば、アクションアドベンチャーゲームの「プレイセットモード」と箱庭的バーチャルワールドを作れる「トイ・ボックスモード」を備えた”WiiU版”の方がオススメです。

追加でフィギュア、プレイセット、パワーディスクを購入しなくても、スターターパック(WiiU版8000円くらい)だけも、そこそこ楽しめることはできますが・・・「MR.インクレラブル」「モンスターズインク」「パイレーツ・オブ・カリビアン」からのキャラクターのフィギュア”だけ”は全部持っていると(その作品に登場するキャラクターのみでプレイ可能)、スターターパックに含まれている「プレイセットモード」を、より楽しめると思います。

さらに、別売りのプレイセット(各3500円くらい)「トイストーイー」「カーズ」「ローン・レンジャー」を買うのであれば、それらのフィギュアも揃えて購入した方が良いでしょう。こうして・・・次々とフィギュアを買い足すようになっているのが、まさにマーケティングの罠であります。「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」「シュガーラッシュ」「塔の上のラプンツェル」「アナと雪の女王」「フィニアスとファーブ」からのキャラクターと「ファンタジア」のミッキーマウスは「トイ・ボックスモード」でのプレイを前提としているので、それらのキャラクターを操作したいのであれば購入すれば良いでしょう。

「ディズニーインフィニティ」は「スカイランダーズ」ほどの”惨敗”ではないようですが・・・日本市場で大ヒットしている様子はありません。そもそも店頭販売しているお店が少なく、日本国内での流通量が少ないのか、入荷時期によっては定価より高く取引されているフィギュアやパワーディスクがあったりします。

「ディズニー・インフィニティ」のレア・フィギュアは、トイザらス専売のクリスタル仕様ぐらい(全7種のうち日本では1種のみ販売)ですし、レア・パワーディスクが存在するものの種類は少なめ。トイザらス専売のゴールドシリーズは、中にどのレア・ディスクが入っているか分かるようになって販売するという優しい仕組みだし、ディズニーシリーズでもレア・ディスクは4種類ほどだけ(シリーズ1に3種類、シリーズ3に1種類)しかありません。それなりの投資は必要ですが・・・フィギュアやディスクのコンプリートも、まぁ非現実的ではないです。


また、フィギュア、パワーディスク、プレイキットは、輸入版と日本版はまったく同じモノなので互換性があり、輸入版を購入しても問題なし。ゲーム内の言語はスターターパックに依存しているらしく、輸入版のフィギュアをスキャンしても、キャラクターは日本語でしゃべります。ただ、これって考えてみると・・・ゲームのシステム内部にキャラクターのボイスが、すでに収録されているってことなのでしょうか?・・・だとするとフィギュアは新しい要素を追加するというよりも、ロックされているデータを解除する「鍵」なのかもしれません。

ゲームの進行や成績によって追加要素が増えてもいくのですが・・・フィギュア、パワーディスク、プレイセットなどを追加購入しないと、手に入れなられない要素が結構あるので、なんだかんだで親泣かせです。小出しに分けての切り売りや、運ませな”くじ”販売というのは、ちょっと前に社会問題になったネットゲームの”ガチャ”の課金地獄のビジネスモデルと、潜在的には似ているような気がしてきて・・・ゲームの奥深さより”あざとさ”を感じてしまいます。


「ディズニーインフィニティ」よりも前の去年4月(2013年)・・・実は、任天堂/株式会社ポケモンからも「フィギュア課金ゲーム」として「ポケモンスクランブル U」(ダウンロード専用)が発売されていました。ゲームを遊ぶのにフィギュアが絶対に必要というわけではなく・・・”お助けポケモン”がゲーム内に、フィギュアを読み取らせることで出現すると言う仕組みで、ゲーム進行を優位にできるという”おまけ”的な存在です。


ポケモンセンターのカプセル玩具販売機(くじガシャポン)で、200円で入手できた「ポケモンスクランブル U」専用のフィギュアの販売は、既に終了。カプセル玩具販売機にはお馴染みのレア・フィギュアも存在していましたが、転売屋の大人が商材にしていたという感じで・・・正直、「課金ゲーム」用のフィギュアビジネスとしては成功したとは言い難い結果です。「ポケモンスクランブル U」は、ある意味「アミーボ」の試験的な運用だったのかもしれません。


満を持して(?)任天堂から発売される「アミーボ」・・・フィギュア1体の販売価格が約1200円というのは「課金ゲーム」用のフィギュアとしては平均的。可動するアクションフィギュアなどと比較すると確かに安いのですが・・・ゲームとのデータ記録装置としての付加価値がなければ、サイズや質感からいうと半額ぐらいが妥当な気もします。・・・とは言っても(「ポケモンスクランブル U」用のフィギュアは論外として)現在1000円ほど(販売開始当初は1200円ほど)で販売されている「スカイランダーズ」シリーズのフィギュアよりは、しっかりとは作られているような印象です。

ピーチ、マルス、ゼルダなどの人物キャラクターは細かいディテールまで作り込んでいる一方・・・ピカチュウ、ヨッシー、カービィなどのマンガっぽいキャラクターは結構シンプルな作りになっています。販売価格は同じでも、キャラクターによって生産コストには大きな差がありそうです。ただ、コストがかかってるという理由でフィギュアを選んでも、思い入れがないのでは本末転倒。自分のお気に入りのキャラクターのフィギュアを育成/成長させて楽しむというのが「アミーボ」の王道の遊び方のような気がします。

しかし、製品版の「アミーボ」の品質は、紹介映像で使われているプロトタイプよりも落ちるという噂も、すでに囁かれています。プロトタイプでは透明のフィギュアを支える支柱が色付きになっていたり、色合いがくすんでいたり、ペイントのように見えた柄がシールになっていたり、顔つきが雑な仕上げになっていたり、細かなディテールが省かれているというのです。まぁ、こういうことは高価なフィギュアでもあることではありますが・・・同価格帯の「ディズニー・インフィニティ」用のフィギュア程度のクオリティでないと、子供騙しのギミック玩具としてユーザーに飽きられてしまうかもしれません。


「アミーボ」と先発の「スカイランダーズ」「ディズニー・インフィニティ」との違いのひとつは・・・複数のフィギュアと追加パックを購入しないと、満足にゲームを進められない「スカイランダーズ」「ディズニー・インフィニティ」に対して、「アミーボ」は自分のお気に入りのフィギュア(とりあえずはスマブラ用に3体くらい?)を成長させて遊ぶことを、推奨しているような仕組みなところではないでしょうか?キャラクターによって独自のアイテムがゲーム内で入手できるようではありますが・・・コンプリートを目指すコレクターだけでなく「ちょっと試しに・・・」というライトユーザーでも十分楽しめそうな仕様は「任天堂らしい」気がします。

専用ゲームや読み取り機器を必要せずに(Wii UとNew Nintendo 3Dの場合)、今後さまざまな任天堂ゲームで「アミーボ」が使えるところも柔軟性を感じさせます。ただし・・・かきこみできるゲームデータは、ひとつのフィギュアにひとつのゲームだけ。ひとつのフィギュアをかきこみで複数のゲームで使い回しはできない仕様らしいのです。例えば、スマブラで育てたマリオを、他のデータのかきこみを必要とするゲームで使いたい場合、スマブラのゲームデータを消去するか、もうひとつマリオのフィギュアが必要となるということです。

発売時の「アミーボ」対応ゲームはWii U 版の「大乱闘スマッシュブラザーズ」(すべてのフィギュアがよみこみ/かきこみ対応)のみですが・・・Wii U版「マリオカート8」(マリオ、ピーチ、ヨッシー、ドンキーコング、リンク、フォックス、サムス、カービィ、ルイージ、キャプテン・ファルコン、トゥーンリンクが対応)「ゼルダ無双」(リンク、トゥーンチンク、ゼルダ、シークが対応)「進め!キノピオ隊長」「タッチ!カービィ スーパーレインボー」「マリオパーティ10」、3DS版「大乱闘スマッシュブラザーズ」「エースコンバット3D クロスランブル プラス」に対応する予定。よみこみ”のみ”対応の場合は、ゲーム内のアイテムやスキンを入手できるという、アンロックの鍵のような仕様ということのようです。ボク個人的には「どうぶつの森」に「アミーボ」が対応したら遊び方が広がるのではないかと、期待しています。

先月末(2014年10月30日)に行なわれた株主向けの質疑応答では、将来的に「アミーボ」はフィギュアだけでなく(!)さまざまな形(小さくて安いフィギュアなど)で展開する計画を発表・・・「どうぶつの森」には、購入しやすい”カードにアミーボ機能を移行させるという構想があるようです。単価が安い(2枚組で200円ぐらい?)のカードであれば、子供のお小遣いでも買うことができますので、ゲームボーイアドバンスのカードeリーダーのようなシステムが復活というところでしょうか?”カード”型「アミーボ」は、おそらくよみこみ専用・・・ゲーム内のアイテムを入手するために、あれやこれや「アミーボカード」を買わされる課金の底なし沼にもなりそうです。

余談ですが・・・任天堂から「アミーボ」が発売される2日前(2014年12月4日)に、バンダイナムコゲーム社から”フィギュア”や”チップ”を付属のリーダーで読み込ませて遊ぶ「仮面ライダー サモンライド」(Wii U版、PS3版)が発売されるようです。フィギュア(計16体?)の追加購入でゲームに平成仮面ライダーを登場(召還)させることができるというフィギュア「課金ゲーム」の典型的なシステム・・・読み取りリーダーのデザインから分かるように「スカイランダーズ」と似た仕組みを採用(パクリ?)しているようです。食玩(フィギュア付きのラムネ菓子全5種)や、ガシャポン(チップ全10種)との連動など、仮面ライダーブランドらしいドメスティックなマーケティング展開される模様・・・ただ、何故よりにもよって「アミーボ」発売直前のタイミングなのでしょうか?


「アミーボ」のフィギュアは、日本では発売開始時に18体、来年(2015年)1月22日に8体、2月に3体と・・・今のところ29体の発売が決まっています。スマブラで使えるキャラクター全てが発売されるのかは不明ですが・・・それほど需要があるとは思えないようなキャラクター(WII Fitトレーナーとか?)もあったり、対応するゲームがスマブラ以外考えられないキャラクターもあったりするので、売れるモノと売れないモノの格差がでてくることは明らかです。半年後にはバーゲンコーナーで投げ売りされているキャラクターもあるかもしれません。今現在のアマゾンでの売り上げランキングをみると、日本では「リンク」「マリオ」「カービィ」あたりが売れているようです。

商品の性質上、フィギュアのバリエーションは数多く必要・・・生産数が需要よりも少ないと売り時を逃すことになるし、逆に在庫を抱え過ぎて投げ売りになると、購買意欲は失われてしまうものであります。前出の「ガイストクラッシャー」「スカイランダーズ」に於いては、ゲームソフトの販売数が伸びない→追加フィギュアが売れない→商品が市場に出回らない→転売屋によって価格が高騰する→ますますソフトもフィギュアも売れなくなる→在庫整理で残ったスターターパックや追加フィギュアが投げ売りされる・・・という悪循環に落ち入ってしまったようです。一時的に在庫切れしても、多少の飢餓状態を生む方が、任天堂にとってはプラスのように思えるので、過剰な在庫を抱えるリスクを回避するためにも、バリエーションは増やしても生産数は抑え気味という可能性があります。

そもそも、現世代の家庭用ゲーム機に於いて、後発の「PS4」と「Xbox One」に出荷台数ではとっくに抜かれてしまっている「Wii U」・・・「アミーボ」によるゲーム機本体の販売促進の方が、任天堂の本当の狙いなのかもしれません。実際、ボク自身も「ドラクエ10」を休止してからは、殆どWii Uを起動することもありませんでしたが、最近になって以前購入していたゲームを再び遊び始めていたりしていますから・・・。「アミーボ」がビジネス的に成功するか否かに関わらず、手に入りにくくなるフィギュアもあるかと思われるので「このキャラクターだけは欲しい!」というのがあれば、発売日前に予約しておくのが無難でしょう。


 

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2014/10/04

ずっとリー・カンション(李康生)”だけ”を見つめ続けたいツァイ・ミンリャン(蔡明亮)監督・・・”心”や”身体”は支配できないから一途な思いが募るばかりなの!~「青春神話 」から「郊遊 ピクニック」& 来日イベント@渋谷イメージフォーラム ~



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ツァイ・ミンリャン(蔡明亮)監督が長編10作目となる「効遊 ピクニック」を最後に、監督引退を表明しました。とは言っても、映像制作の現場を退くわけではなく・・・興業を目的とした”商業”映画から退くということで、今後も美術館での上映を前提にした”芸術”としての映像作品の製作を続けるそうではありますが。

主演のリー・カンション(李康生)は、1992年のツァイ・ミンリャン監督の1作目「青春神話」以来”すべての作品”に主演・・・世界的にみても映画史上かつてない映画監督と主演男優の”パートナーシップ”といえるでしょう。ツァイ・ミンリャンとリー・カンションを、アントワーヌ・ドワネルの冒険シリーズ(大人は判ってくれない、アントワーヌとコレット/二十歳の恋、夜霧の恋人たち、家庭、逃げ去る恋)でのフランソワ・トリュフォー監督とジャン=ピエール・レオの関係との類似もありますが(ツァイ・ミンリャン監督自身も意識している?)・・・どちらかというと、ルキノ・ヴィスコンティとヘルムート・バーガー(華やかな魔女たち、地獄に堕ちた勇者ども、ルートヴィヒ、家族の肖像)または、ジャン・コクトーとジャン・マレー(美女と野獣、双頭の鷹、ルイ・ブラス、恐るべき親達、オルフェ)のような「寵愛関係」のような印象があります。

二人の出会いは、ツァイ・ミンリャン監督の映画デビュー前に監督したテレビドラマ「小孩」(1991年)で、主人公の小学生を脅す不良になりきれない孤独な少年役に、当時予備校生だったリー・カンションを台北の西門町界隈で見かけて抜擢したことから。俳優を目指してオーディションを受けたわけでもなく、ツァイ・ミンリャン監督がリー・カンションに一方的に”一目惚れ”したと言っても過言でない”きっかけ”だったのです。「小孩」というドラマでの役名は分かりませんが・・・その後、すべてのツァイ・ミンリャン監督の映画作品に「シャオカン」という役名で主演することとなります。シャオカン=小康とはリー・カンション本名の李康生のニックネーム「カンちゃん」ということ・・・如何に、特別な存在であることが伺えます。ツァイ・ミンリャン監督の映画は、そもそも”リー・カンション”なしでは成り立たたないと言えるほど、”リー・カンション”がいて”こそ”の映画をつくっているような気がするほどです。

各作品のネタバレを含むことあります。


二人の映画デビュー作「青春神話」は、台北で暮らす若者数人の物語・・・少ない台詞、音楽なし、長回しなど、ツァイ・ミンリャン監督のシグニチャーといえるスタイルが垣間みれます。リー・カンション演じる”シャオカン”は、「小孩」と同じように、どこかしら孤独感と不満を抱えて、行き先の分からない若者・・・どこにでもいそうな普通の風貌、ゆっくりな動きと台詞回しから、映画のために見つけてきた”素人”みたい。ただ、この”素人”っぽさこそが、リー・カンションの特別な持ち味であり、”シャオカン”というキャラクターの存在を生々しく感じさせるのかもしれません。

第2作「愛情萬歳 」は、無関係な3人の男女が空き家の部屋に出入りすることで関わりを持っていく物語が並行的に描かれるのですが・・・リー・カンション演じる”シャオカン”は、もうひとりの男性キャラクターに惹かれているというホモ・エロティックな欲望を抑圧しています。リー・カンション(実生活ではストレート)へのツァイ・ミンリャン監督自身の”思い”を代弁しているかのようで・・・痛々しさを感じてしまうのです。

第3作「河 」では、リー・カンション演じる”シャオカン”が明らかな主人公となり、映画そのものを支えていきます。エキストラのアルバイトで汚染された川で死体役をやったことで首が曲がらない奇病にかかってしまうという、不気味で寓話的なストーリーなのですが・・・ゲイサウナで父親と息子が遭遇して、お互いと分からずにエッチをしてしまうという衝撃的な展開です。


第4作、1998年の「Hole-洞」は、ラース・フォン・トリアー監督の「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(妄想シーンがミュージカル)を先取りしたようなスタイル・・・1950~60年代の歌手グレース・チャンの曲を使用するなど、ゲイっぽいテイストを炸裂(?)させています。ウィルスが蔓延している近未来(2000年)を舞台に、雨漏りで開けられた穴がアパートの上下階の男女を結ぶというツァイ・ミンリャン監督好み(?)の設定で、台詞はますます省かれており、時々挿入されるミュージカルシーンが暗い物語に、色を加えている感じです。

フランスで高い評価を受けてきたツァイ・ミンリャン監督の、第5作「ふたつの時、ふたりの時間 」はフランス合作・・・ジャン=ピエール・レオがカメオ出演という豪華さ。リー・カンション演じる”シャオカン”は、腕時計を販売する露天商・・・父親が亡くなって以来、母親は喪失感で精神のバランスを崩して、実家はまるで使者を向かいいれるための空間と化しています。シャオカンから腕時計を飼った女性はパリに行き、そこで言葉や文化の違いから孤独となっていき、親切にしてもらった香港女性とレズ的関係を結びます。台詞はさらに少なくなり、サウンドトラック音楽は皆無・・・さらにツァイ・ミンリャン監督のスタイルを追求した印象です。

第6作の「楽日」になると、台詞が少ないというレベルの話じゃなく、殆どなし・・・・というのも、閉館直前の映画館(キン・フー監督の作品を上映)を舞台に、観客たちや従業員を淡々と描くのですから。この作品を映画館で観る観客は、映画の中でひとりでスクリーンを観る人々を観るということになるわけです。勿論、映画を上映しているわけですから、観客同士の会話があるわけでもありません。ゲイのツァイ・ミンリャン監督らしく、ゲイのハッテン場であることも描いているのですが・・・断られる日本人男性客のリアクションは、日本人からすると謎ではあります。台詞を排除というスタイルに於いて、行き着く所まで言った作品だと思うのです。


第7作の「西瓜 」は「ふたつの時、ふたりの時間」の続編 ではあるのですが・・・そもそも、ツァイ・ミンリャン監督の作品でリー・カンション演じる登場人物は常に”シャオカン”という名前で、多少の設定の違いはあるものの、ある意味、同一人物のようなところあったりします。「ふたつの時、ふたりの時間」では、台北とパリに離れていた二人が、何年後かに台北の古びたアパートビルの中で再会し、惹かれ合うことになるのです。露天商だった”シャオカン”はAV男優となっており、同じビルの中でビデオ撮影に励んでいる様子が、非常にエロチックでありながら滑稽に描かれているのですが、毎度のことながら台詞は殆どなし。ただ「Hole-洞」のようにミュージカルシーンが挿入されていて、単調な流れのアクセントになっています。まさに(!)”シャオカン”の思いを受け止めるかのような口内射精のドアップ長回しのエンディングに呆然。この作品は、公開された年には台湾映画して台湾では興行成績1番だったということで・・・「ツァイ・ミンリャン監督の作品は商業的ではない」という汚名返上となったのかもしれません。

台湾で映画製作を続けてきたツァイ・ミンリャン監督ですが、初めて故郷のマレーシアを舞台したのが第8作の「黒い瞳のオペラ」です。リー・カンションは、チンピラに殴られて怪我をした”シャオカン”と寝たきりの青年の二役を演じています。”シャオカン”にホモエロテックな感情を抱きながら介抱する労働者、”シャオカン”に惹かれる寝たきりの息子を介護している母親・・・何も話さないストレートの「男」と外国から来た「ゲイ」と「女」の三角関係が、台詞なしで淡々と描かれていくのです。「女」と”シャオカン”の関係に嫉妬する「ゲイ」の切ない思い・・・最後は廃墟の水たまりに浮かぶマットレスの上で”シャオカン”を真ん中にして両側に横たわる「女」と「ゲイ」。”シャオカン”は二人”とも”受け入れたようです。まるでツァイ・ミンリャン監督自身のリー・カンションへの一途な思いを訴えているかのようなエンンディングに涙してしまいます。

第9作となる「ヴィザージュ」は、ジャン=ピエール・レオ、ジャンヌ.モロー、ファニー・アルダンらが出演のヌーベルヴァーグ50周年を記念してルーブル美術館から依頼されて製作した一作です。「サロメ」をモチーフにした映画の製作にパリを訪れている台湾の映画監督をリー・カンション演じているわけですが、ストーリーを語るというよりも、幻想的ミュージカルシーンを交えながら、オマージュのようなイメージを積み重ねていくのですが・・・ツァイ・ミンリャン監督の映画スタイルとリー・カンションの存在感は、フランス映画俳優たちのオーソドックスな演技との違和感を感じさせます。「ヴィザージュ」は、フランスでは一般公開されたものの、ルーブル美術館でループ上映されたアートフィルム・・・もはや、一般的な映画という視点では語れない作品なのかもしれません。


ツァイ・ミンリャン監督は、第10作「郊遊 ピクニック」を最後に商業映画からの引退を宣言・・・今後は美術館などで上映されることを前提とした「映像作品」を製作していくそうです。ある意味、「英断」とも言えるのかもしれませんが、商業主義を否定することで自己満足にも落ち入りがち・・・アート映像作品に於いて「固定カメラの長回し」というのは、数多くの作家がやり尽くした方法で、決して珍しい手法ではありません。ここ数年、ツァイ・ミンリャン監督が熱心に製作しているのは、リー・カンションがゆっくりと歩く姿を撮影した「行者/Walker」シリーズです。パフォーマー(?)としてのリー・カンションを記録した映像作品というような印象・・・リー・カンションをカメラで収めたいというツァイ・ミンリャン監督の一途な思いをヒシヒシと感じさせるのです。

「郊遊 ピクニック」の前半は、初期からのツァイ・ミンリャン監督作品にみられた「台詞なし」「音楽なし」のミニマルなスタイルで、リー・カンション演じる父親”シャオカン”と二人の子供たち(ツァイ・ミンリャン監督の甥っ子と姪っ子だそうだ)の貧しい生活を淡々と撮影するというもの・・・しかし、後半は近年みられるアブストラクトな表現となり、物語として語るのは難しくなっていきます。特にエンディングの15分にもおよぶ長回しは、観客の生理的限界を超えるほど・・・ここまでとなると、ツァイ・ミンリャン監督からの挑戦状というか、監督自身が自らのスタイルに縛られて、行き着く所まで行ってしまった(?)感さえ感じさせます。

スクリーン上で流れている時間と実際に撮影された時間が同じとなる「長回し」・・・この時間の扱いに於いて、ツァイ・ミンリャン監督はシャンタル・アケルマン監督との類似点があるように思うのです。以前、このブログで書いたことがあるのですが(めのおかしブログ参照)・・・シャンタル・アケルマン監督の代表作である「ジャンヌ・デュエルマン」では、じゃがいもの皮を剥く作業を始めから終わりまでを固定カメラで延々と捉えています。映画的な編集によって省略されている時間の流れではなく、スクリーン上で同じ長さの時間が流れることで観客も実感するのです。ただ、ツァイ・ミンリャン監督の長回しは、まるで時間が止まっているかのようで・・・観客は虚無感だけを感じるしかありません。


日本での「郊遊 ピクニック」公開を記念して、2014年6月17日にツァイ・ミンリャン監督とリー・カンション来日イベントが、渋谷シアター・イメージフォーラムにて行われました。新作が公開するたびに来日して、意欲的に宣伝活動をされてきた二人ですので、来日は珍しくはありません。ボクは言葉が分からないので理解できないところがあるのですが・・・「郊遊 ピクニック」での金馬奨最優秀主演男優賞の受賞を報道する台湾メディアで、ツァイ・ミンリャン監督のリー・カンションへの寵愛っぷりを茶化しているような印象があります。今まで、いろいろと噂されてきた二人を、ボクは自分の目で確かめたかったのです。

まず、トークイベントの冒頭で語られたのが・・・「郊遊 ピクニック」が引退作品となるかは、まだ分からないということ。ツァイ・ミンリャン監督とリー・カンション共に、健康的な問題(リー・カンションはイベントの一ヶ月半ほど前に軽い脳梗塞を患っている)もあってのことらしいのです。しかし、ファンからの強い要望と興行的に可能であれば、再び商業的な映画を製作するかもしれません。まぁ、なんだかんだで・・・興行成績に縛られる映画製作に疲れてしまったようなのです。台湾では「50回限定」で上映して、8000席があっという間に売り切れたそうで、明らかにツァイ・ミンリャン監督の熱狂的なファンは存在するのですから、ぜひ商業映画を制作し続けて欲しいと思います。

台詞が殆どないスタイルを一貫して追求してきたツァイ・ミンリャン監督ですが、トークイベントでは非常に饒舌・・・ソフトな”おねえ口調”で延々とひとり話し続けます。リー・カンションは、映画の中で演じている”シャオカン”と同様に非常に寡黙・・・当日は体調があまり良くないということもあったようですが、それを考慮しても無愛想で話をするのも億劫そう。無理をしてまでイベントに出席してもらったことに、観客として申し訳なく感じてしまうほどだったのです。脳梗塞の後遺症で、まだ体の半分が不自由なのでイベント後のサイン会には参加できないと、主催者側から伝えられたものの「わざわざ来てくれたお客さまだから」と気遣い・・・「郊遊 ピクニック」の前売り券を購入した方に限り、無理がない限りサインしますと宣言。ファンとしては非常に有り難いことではあるのですが、・・・こう言われて前売り券を買わずに帰るなんて、さらに申し訳ない気持ちにさせられてしまいます。本当に純粋に誠意ある行動だったとは思うのですが、周りの人間はリー・カンションのために、自分ができるだけのことをしたくなってしまう・・・リー・カンションという人が天性で持っている「魔性」が垣間みれた気がしたのです。

トークイベントでは「シャオカン、シャオカン、シャオカン」と、とにかく「シャオカン」を讃えるツァイ・ミンリャン監督と、極端に寡黙なリー・カンション・・・二人の温度差があり過ぎて、その場にいるボクの方が恥ずかしくなるぐらいでした。この二人に「肉体関係があるの?」という下世話な真偽は、本人たちのみ知ることではありますが・・・リー・カンションに対するツァイ・ミンリャン監督の一方的な思いは、ボクが想像していたよりも、ずっとずっと強いと感じさせられました。


もしも(勝手なボクの邪推と妄想です)・・・リー・カンション「も」ゲイで、ツァイ・ミンリャン監督の愛を”肉体的”にも受け止めていたとしたら、二人のコラボレーションがこれほど長く続いたかは疑問に思います。リー・カンションは他の映画監督の作品の出演や、彼自身が映画監督をつとめた作品(「迷子」「ヘルプ・ミー・エロス/Help Me Eros」もあるのですが・・・どの作品も、ツァイ・ミンリャン監督の影響下から脱しているとは言えません。

リー・カンションの人生(俳優としてのキャリア)は、ツァイ・ミンリャン監督によって生み出されて、輝きを保っていると言っても過言ではないのです。ただし・・・ツァイ・ミンリャン監督がリー・カンションの人生/俳優生命を支配(?)しているとしても、男性としての”心”や”身体”までは征服することはできません。”貢ぎモノ”は受け取ったとしても、ストレートの男性の肉体や心までは手に入れることはできないというのは、ゲイの男性の”運命”。だからこそ・・・ツァイ・ミンリャン監督の思いは永久的に一途であり、投資した年月とともに強くなるばかりなのかもしれないと思うのです。

以前、リー・カンションが婚約したというニュースをインターネットで読んだ覚えがあるのですが・・・その後、実際に結婚したとういう報道の記憶はありません。(ボクが知らないだけ?)伴侶として”女性”を選ぶのは、ストレートのリー・カンションにすれば当然のこと・・・いつかは子供のいる家庭を築きたいと思うのは極々自然であります。ただ、ツァイ・ミンリャン監督の存在を、リー・カンションの人生から排除することは絶対的に不可能・・・それを理解する女性でなければ、リー・カンションの妻にはなれないことは明らかです。

自分の才能のすべてを捧げるほどの相手に出会うことは、何かをクリエイトする者にとっては、幸運なことなのかもしれません。商業映画監督か芸術映像作家になってもツァイ・ミンリャン監督は、ずっとリー・カンション”だけ”を見つめ続ける・・・とうとう「二人だけの世界」に入り込んでしまうようにも思えてしまうのです。

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ツァイ・ミンリャン(蔡明亮/Ming-Liang Tsai)監督の主なフィルモグラフィー


1992 青春神話 青少年哪吒
1994 愛情萬歳 愛情萬歳
1997 河 河流
1998 Hole-洞(
2001 ふたつの時、ふたりの時間 你那邊幾點
2003 楽日 不散
2005 西瓜 天邊一朶雲
2006 黒い瞳のオペラ 黒眼圏
2009 ヴィザージュ(
2013 効遊 ピクニック(郊遊

「郊遊 ピクニック 」
原題/郊遊 
2013年/台湾、フランス
監督 : ツァイ・ミンリャン
出演 : リー・カンション、ヤン・クイメイ、ルー・イーチン、チャン・シャンチー、
2013年12月1日第14回東京フィルメックスにて上映
2014年8月29日より渋谷シアター・イメージフォーラムにて劇場公開

ツァイ・ミンリャン監督引退作「効遊 」公開記念「河」特別上映
蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)&李康生(リー・カンション)来日イベント
2014年6月17日@渋谷シアター・イメージフォーラム


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2014/09/17

過激なゲイ活動家ラリー・クレイマーの自伝的戯曲をマーク・ラファロ、ジュリ ア・ロバーツ、マット・ボマー出演で映像化!・・・30年を隔て「 AIDSクライシス」と「エイズ抗議活動」の検証〜「ノーマル・ハー ト/The Normal Heart」〜



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1981年7月3日のニューヨークタイムス紙で「AIDS/後天性免疫不全症候群」は、初めて報道されました。その年の9月15日、18歳のボクはニューヨークへ移住したのですが・・・”AIDSクライシス”の中心へ飛び込んだことは、当時は知る由もなかったのです。

ゲイ活動家ラリー・クレイマー氏は、ケン・ラッセル監督の「恋する女たち」の脚本家として知られていますが・・・後に「AIDS」と呼ばれることになる「Gay Cance/同性愛者の癌」には、かなり早い時期から警鐘を鳴らしていたバリバリのゲイ/エイズ活動家であります。創立者のひとりであったGMHC(Gay Men's Health Crisis/ゲイ・メンズ・ヘルス・クライシス)から追放された後、1985年に発表したのが「ノーマル・ハート/The Normal Heart」という戯曲・・・オフ・ブロードウェイの初公演で主役を演じていたのは、あのブラッド・デイヴィス(「ミッドナイト・エキスプレス」などで知られる俳優で41歳のときAIDSで亡くなる)で、当時まだまだ進行中の”AIDSクライシス”の中で、作品は賛否両論だったという記憶があります。


ニューヨークタイムス紙の報道から約30年となる2011年・・・「ノーマル・ハート/The Normal Heart」は、再びオフ・ブロードウェイで公演され、2014年「グリー」で知られるライアン・マーフィー監督によって、HBO(ケーブルチャンネル)のテレビ映画として遂に映像化・・・そして、先日(2014年8月25日)発表された第66回エミー賞で「TV映画作品賞」を受賞したのです!(ちなみに、シリーズ/TV映画助演男優賞には「ノーマル・ハート」から4名もノミネートされていた!)

”AIDSクライシス”についての映像作品はいくつもありますが・・・真っ正面から”AIDS”と”ゲイ・コミュニティー”を描いた一番最初の映画は1990年に製作された「ロングタイム・コンパニオン」だったと思います。劇場公開時にボクも観に行ったのですが・・・当時としては赤裸々な内容という印象で、ストレートの俳優たちがゲイ男性役を演じることさえも勇気のある行動だと称されてしまう時代でした。ただ、今の感覚では微妙に差別的な描写もあり、妙にセンチメンタルでドラマティックに演出された作品としてゲイ・コミュニティーの評価はイマイチ・・・アメリカではDVD廃盤で観ることの難しくなっている作品でもあります。


1993年にHBOのテレビ映画として製作された「And the Band Played On/アンド・ザ・バンド・プレイド・オン」は、”AIDS”の発端や感染ルートを検証した意欲的な作品・・・現在では、事実とされている事と食い違っている部分はあるものの、当時のアメリカ政府の対応責任を追及した初めての映画かもしれません。マシュー・モディーン、リチャード・ギア、スティーヴ・マーティン、マンジェリカ・ヒューストン、リリー・トムリン、アラン・アルダ、フィル・コリンズなど、多くのスターが出演していましたが、日本では何故か劇場公開はされず(多くのテレビ映画は日本などの海外では劇場公開されることがある)VHSビデオ販売とレンタルのみ・・・日本語版のDVD発売もされていません。また、日本語タイトルが「運命の瞬間/そしてエイズは蔓延した」という酷さ(1991年に発刊された原作の翻訳タイトルに準じているようですが)・・・当時の日本でのエイズの捉え方というのが、分かるような気がします。

トム・ハンクスがアカデミー主演男優賞を獲得したジョナサン・デミ監督による1993年の「フィラデルフィア」、アル・パチーノ、メリル・ストリープ、エマ・トンプソンなどがスター俳優が多数出演した1980年代、エイズ、ユダヤ系、同性愛というテーマを紡いだ壮大なテレビ映画2003年の「エンジェルズ・イン・アメリカ」と・・・普遍的な観点で”AIDSクライシス”を描いた優秀な作品もあります。去年、マシュー・マコノヒーがアカデミー主演男優賞に輝いた「ダラス・バイヤーズ・クラブ」は、アメリカ政府のエイズの治療薬の臨床試験の遅さを痛烈に指摘した作品・・・約30年前という時を隔てたからこそ、改めて”AIDSクライシス”を時代的に検証しようというムードが高まっている思いがします。

本編のネタバレありです。


ノーマル・ハート/The Normal Heart」は、ラリー・クレイマー氏の1981年から1984年の体験を元にした自伝的な内容・・・ただ、主人公をはじめ登場人物らは実名ではありません。ネッド・ウィークス(マーク・ラファロ)は、ニューヨークに住むオープンリー・ゲイのライター・・・1981年の夏、ゲイの集まる避暑地のファイアーアイランドのバインで、友人らと過ごしているのですが、友人の一人が急にビーチで倒れ込みます。これが後にエイズと呼ばれることになる感染症なのですが・・・当時は、ニューヨークタイムス紙で「謎の同性愛者の癌」と報道されていたぐらいで、まだ誰もウィルスの存在さえも分かっていなかったのです。ニューヨーク市内の病院で数々のゲイ男性の患者を診察していたエマ・ブレークナー医師(ジュリア・ロバーツ)は、GRID(ゲイ・リレーテッド・アミューン・ディジーズ/同性愛男性関連の免疫疾患)であると認識をして、ネッドと共にゲイ・コミュニティーの集まりで”性感染症”であると警告をします。

1980年代初期のニューヨークのゲイ・コミュニティーの雰囲気というのは、1969年に起こったストンウォール事件を発端として広がりをみせたゲイ人権活動が実を結んだ時代・・・1970年代のフリーセックスの空気も相まって、良くも悪くも”ゲイ理想郷”(セックスやりまくり!)となっていたのです。「AIDS」は、長年の戦いの末に勝ち取った自由、誇り、権利を脅かすものでしかなく・・・性行為の罪悪感や自粛を生みかねない”性感染症”である警告をいち早くゲイ・コミュニティーへ訴えたラリー・クレイマー氏は、当初はゲイ・コミュニティー存続の根底を揺るがす者として”厄介者”扱いを受けていたのです。それでもネッドは屈することなく、出来るだけ大きなメディアに扱ってもらおうと、ニューヨークタイムズ紙の記者であったフィリックス・ターナー(マット・ボマー)とコンタクト取ります。その後、ネッドとフィリックスは恋に落ちるのです。


ネッドは、他のゲイ活動家たちブルース・ナイルス(テイラー・キッシュ)、ミッキー・マーカス(ジョー・マンテロ)、トミー・ボートライト(ジム・パーソンズ)らとGMHC(Gay Men's Health Crisis/ゲイ・メンズ・ヘルス・クライシス)を設立・・・患者の生活サポートから政治的な活動まで、幅広い運動を行なっていくことなります。確かに「住んでいるアパートを追い出された」「家族に見捨てられた」「死体を埋葬できない」など、当時のエイズに対する差別は、感染方法も治療方法も分からなかったために酷いものだったことを、ボク自身も身近な出来事として記憶しています。エイズ患者に居場所を与えたり、食事を用意してくれたり、治療を受けられる病院を教えてくれるGMHCの存在は非常に貴重で、万が一感染したら「まずGMHCに行け!」という感じだったのです。というか・・・GMHCぐらいしか、エイズ患者を助けてくれる組織はありませんでした。その後、感染が麻薬使用者や女性にも広がって行く中、GMHCはゲイ男性患者に限らず、エイズ患者ならばどんな人でも救っていく組織になっていったのです。

ネッドとフィリックスは幸せな同棲生活を過ごしていたのですが、フィリックスがエイズ発症・・・政府や行政の対応の悪さと戦いながら、ネッドは恋人フィリックスがエイズによって徐々に衰えていく姿を目のあたりにしなければなりません。また、ホモフォビアで弁護士として成功しているネッドの兄(アルフレッド・モリーナ)との確執もあります。ニューヨーク市行政の対応の悪さを訴えるために、当時の市長であったエド・コーチ氏を名指しで告発・・・結婚経歴がなかったコーチ市長を同性愛者であると暴露する(後にコーチ市長は同性愛者であることをカミングアウト)など、ネッドの政治活動は人権的な問題もあり、徐々に組織内で孤立をしていきます。


また、ネッドの性感染症であるという警告は、自由なゲイのライフスタイルを獲得するために命をかけてきたミッキーのようなゲイ活動家にとっては、今まで戦ってきたことを否定されるようなもので、強い拒否感を持たれていたこともあったのです。2011年のオフ・ブロードウェイでのリバイバル公演では、ネッド役を演じていたジョー・マンテロが、ミッキー役を本作では演じているのですが(ややこしい?)・・・彼の訴える当時のゲイ活動家としてのジレンマは(結果的にはネッド正しかったのですが)、当時の世相を考慮すると理解できないわけではありません。そうして最終的にはネッドは、自らが創立に関わったGMHCから追い出されていまうのです。


主人公であるネッド・ウィークスが、ラリー・クレイマー氏をモデルとしていることは明らかではありますが・・・1980年代に各メディアに露出していたラリー・クレイマー氏は、本作で描かれている以上に強烈に攻撃的な印象でした。エマ・ブレークナー医師は、実際に車椅子利用者であったリンダ・ルーベンステイン(Linda Laubenstein)氏、また(ラリー・クレイマー氏は公には認めていませんが)フィリックスのモデルとなっているのは、当時ニューヨークタイムズ紙のファッション部門の記者であったジョン・ドューカ(John Duka)氏であるというのが定説となっています。このように、実物の人物がモデルとなっている作品なので・・・30年という年月が隔たったことで、俯瞰的に表現できるというのはあるのかもしれません。

ネッドを演じるマーク・ラファロは、良い感じに年齢を重ねている男優(46歳)で・・・本作でも”いい味”を出しています。徐々に熱くなる熱演には、心が震えさせられました。テレビシーズ「ホワイトカラー」で知られるマット・ボマーは、同性婚をカミングアウトしているアメリカの芸能界ではまだ珍しい(?)オープンリーゲイの男優・・・あまりにも二枚目過ぎるのでラリー・クレイマー氏からフィリックス役には適さないといわれたものの、役への熱意を訴えてフィリックス役を得たそうです。30ポンド(約18キロ)の減量は「ダラス・バイヤーズ・クラブ」でアカデミー主演男優賞を受賞したマシュー・マコノヒー(40ポンド減量!)にも負けず劣らずの”凄まじさ”であります!輝くようなハンサムっぷりから衰弱しきった姿は、エイズで亡くなっていった多くのゲイの友人達の最後の姿と重なって、ボクは正視できないほどでした。本作に於いて、一番のサプライズ(?)は、ジュリア・ロバーツの圧倒的な存在感・・・出演シーンは決して多くないのですが入魂の演技には感動しました。


死の淵のベットで、ネッドとフィリックスはエマ・ブレークナー医師により”夫婦の誓い”をします。今では同性婚が認められているニューヨーク州ですが、当時(1984年)は誰も想像することのできなかったことかもしれません。ホモフォビアの人は、そもそも観ないとは思いますが・・・この作品を観て「男同士でキスなんてキモい!」なんて感じるなんて人として”アリエナイ”と思えるほどです!ネッドのような経験をしたのであれば、亡くなった恋人のために「どんなことをしてでもエイズと戦わなければならない!」という執念が生まれたのも理解できるような気がします。ラリー・クレイマー氏は、自身もHIVに感染しながらも治療を続けていて、現在、御年72歳でご健在・・・まさに激動のゲイ運動の歴史の生き証人というような方です。

ひとつだけ、この作品に注文をつけるとしたら・・・時代の風俗的な詰めの甘さでしょうか?冒頭のファイヤーアイランドのパーティーシーンでは、当時のディスコミュージックを流して雰囲気を出そうとしているのですが・・・登場人物たちの服装、髪型など風俗的な時代考証がしっかりしておらず、1970年代後半から現在までが”まぜこぜ”のスタイルなのです。ある特定の”時代”を描きながらも、普遍的な物語として語るために時代的な風俗に縛られたくないという制作者側の意図があるのかもしれませんが(かなり好意的に解釈)・・・いつの時代の出来事なのかが分からなくなったところもあるような気がします。(特に実際に時代を生きたボクの世代にとっては)

ラリー・クレイマー氏は「ノーマル・ハート/The Normal Heart」の主人公ネッドがエイズの実験的な治療を受けながら、ユダヤ系の家庭に育った少年期から青年期を振り返る「ザ・デスティニー・オブ・ミー/The Destiny of Me」という戯曲を1992年に発表していますが・・・本業の作家としてよりもゲイ活動家としての存在感が際立っています。1987年「沈黙=死」をスローガンにした、攻撃的で過激な抗議活動を行う「ACT UP」(AIDS Coalition to Unleash Power/力を解放するエイズ連合)を設立・・・当時の「ACT UP」の怒りの抗議を身近で目撃して”恐怖”さえ感じることもあったボク自身は、自分のセクシャリティと政治に一定の距離をもつ生き方を選んだところはあります。ただ、30年が隔ててみると・・・目前で起こっていた”あの時代”を、自分自身の中で改めて検証したい気持ちを抑えられなくなってくるのです。


「ノーマル・ハート」
原題/The Normal Heart
2014年/アメリカ(HBO)
監督 : ライアン・マーフィー
脚本 : ラリー・クライマー
出演 : マーク・ラファロ、ジュリア・ロバーツ、マット・ボマー、テイラー・キッシュ、ジョー・マンテロ、ジム・パターソン、アルフレッド・モリーナ、B・D・ウォン、ジョナサン・グロフ、ステファン・スピネーラ
「スターチャンネル/STAR1」にて放映(スターチャンネル番組案内参照)
2014年11月29日午後9時、11月30日午前9時半、12月5日午後10時半、12月21日午前9時半、12月27日午前3時半

「ロングタイム・コンパニオン」
原題/Longtime Companion
1990年/アメリカ
監督 : ノーマン・レネ
脚本 : クレイグ・ルーカス
出演 : キャンベル・スコット、ブルース・デビットソン、ダーモット・マローニー、メアリー=ルイーズ・パーカー、パトリック・キャシディ、マーク・ラモス、スティーヴン・キャフリー
1992年6月13日より日本劇場公開

「運命の瞬間/そしてエイズは蔓延した」
原題/And the Band Played On
1993年/アメリカ(HBO)
監督 : ロジャー・スポティスウッド、
脚本 : アーノルド・シュルマン
出演 : マシュー・モディーン、リチャード・ギア、スティーヴ・マーティン、マンジェリカ・ヒューストン、リリー・トムリン、アラン・アルダ、フィル・コリンズ、イアン・マッケラン、ナタリー・ベイ、B・D・ウォン
日本劇場未公開(VHS&レザーディスク販売/VHSレンタルあり)




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