2014/01/31

オーストリア不快映画の次なる刺客(!)ウルリヒ・ザイドル監督による「パラダイス」三部作/その1・・・主人公の自己矛盾を冷ややかに見つめる残酷な視点がエグいの!~「パラダイス:愛/Paradise : Love」~



突然、幸せな家族を襲う理不尽な犯罪を描いた「ファニーゲーム」を始め「ピアニスト」「白いリボン」など代表作の”不快映画”の巨匠(?)ミヒャエル・ハネケ監督、少年を監禁し性的虐待をする男の日常を描いた「ミヒャエル」のマルクス・シュラインツァー監督、娼婦の過酷な環境と信仰を追ったドキュメンタリー映画「Whores' Glory」などで知られるミヒャエル・グラウガー監督など・・・どういうわけかオーストリアには、淡々とした描写でありながら何とも言い表せない”不快感”を醸し出す映画作家が幾人もいるのですが、ウルリヒ・ザイドル監督も”そのひとり”であります。

ウルリヒ・ザイドル監督は1980年代からドキュメンタリー映像作家として活躍、2001年「ドッグ・デイズ」で劇映画デビュー、2007年「インポート/エクスポート」に続いて発表されたのが、本作「パラダイス:三部作」です。「ドッグ・デイズ」「インポート/エクスポート」では、淡々とした脈略もなさそうな描写の積み重ねで、複数の登場人物が平行に進行していく中、次第に物語を紡いでいくという構成でしたが、「パラダイス:三部作」は、ひとりの主人公を追っていくという構成となっています。カンヌ映画祭(パラダイス:愛)、ヴェネチア映画祭(パラダイス:神)、ベルリン映画祭(パラダイス:希望)に出品された「パラダイス:三部作」は、ウルリヒ・ザイドル監督の集大成といえるような作品で、淡々とした描写、広角レンズの固定カメラによるシンメトリーな構図などの”ザイドル調”は相変わらずで、3人の女性が”パラダイス”を求めて裏切られていく姿を描く”三部作”なっているのです。


第1作目の「パラダイス:愛/Paradise : Love」は、中年女性テレサがバケーションで訪れたパラダイスのようなケニアで、現地の男性たちに”愛”を求めながらも、自尊心を失っていくさまを残酷に追った物語。第2作目の「パラダイス:神/Paradise : God」は、第1作目の主人公であるテレサの姉・アンナが信仰によって築いた虚構のパラダイスが、下半身不随の夫と再び同居し始めることで崩れていき、懺悔の鞭が”神”への反逆となる滑稽な物語。第3作目の「パラダイス:希望/Paradise : Hope」は、テレサの娘・メラニーが肥満児を集めたダイエットのためのサマーキャンプで、ロリコンのおじさん指導員に恋をするも、冷たくフラれて”希望”を失うという切ない物語。どれも、主人の女性たちの生々しい欲望が”自己矛盾”や”自己崩壊”を招いていくという”皮肉”を感じさせる”不快映画”であります。特に、第1作目の「パラダイス:愛」から痛感させられた”虚無感”は、ボクの心を深く突き刺したのです。

テレサ(マルガレーテ・ティゼル)は、ダウン症の患者たちのケアをする仕事をしているらしい50歳(ゲゲゲ、同い年!)のシングルマザー・・・ティーンエージャーの娘・メラニーを姉のアンナに預けて、ケニアのビーチリゾートに長期のバケーションに旅立ちます。リゾートに滞在している女友達(インゲ・マックス)は「肌がココナッツの香り」「アソコがでっかい」と、現地の若い男性にメロメロ・・・ただ、バイクを買い与えるなど貢ぎながらも、彼らをバカにしているところもあるのです。現地の男性たちも、彼女のように男漁りに訪れている中年女性を”シュガー・ママ”と侮蔑的に呼んでいるという”どっちもどっち”利用し合う関係。金にモノを言わせて自分の性的な欲望を満たすというのは、日本人のオジサン達がやってきた東南アジアへの買春ツアーと同じこと・・・貨幣価値の格差によって自分の国では誰にも見向きもされない50代の太ったオバサンでも若い男性にチヤホヤされてカラダを求められるのですから、ある意味「パラダイス」なのです。それに・・・アフリカ系の男性には豊満な女性(ブヨブヨのデブの白人女性でも)に性的な魅力を感じる嗜好も、利害関係を作りやすくしているという”皮肉”かもしれません。

テレサがビーチを歩けば、大勢の若い男性が近寄ってきます。彼らの目的はアクセサリーや土産物を買ってもらうだけでなく、彼女に”シュガー・ママ”になってもらうこと・・・最初は断り続けていたテレサも、アクセサリーの売り子のガブリエル(ガブリエル・ムワルーア)の褒め言葉に根気負けしてしまいます。ダンスを教えてもらったり、現地の人しか知らない場所を案内してもらっているうちに親しくなり、早々にレンタルルーム(ラブホテルのようなところ)にしけこむことになるのです。しかし、テレサはセックスの途中で逃げ出してしまいます。年上の太った自分のような白人女性とセックスをしようなんて、貢いでもらうのが目的であることは明らか・・・「愛情のないセックスはしたくない」とテレサは自分のプライドを守るのです。ただ・・・これって、性的欲望に素直になれない自分への”いいわけ”と言えるかもしれません。守るべき”プライド”が、逆に物事の本質を見失わせてしまうこともあるのですから・・・。

リゾート仲間の女友達に、外見ではなく内面を知って愛して欲しいと語るテレサ・・・確かに「恋愛の正論」ではあり、女性として望むシチュエーションであるのですが、現実的に考えてテレサのような太ったオバサンの内面を知ろうとする男性というのは・・・(悲しいことですが)ほぼ”アリエナイ”存在です。自己認識をしないで「恋愛の正論」を求めてしまう・・・これこそが”矛盾”であり、結果的に”崩壊”へと繋がっていく根本的な原因。悲劇的な結果は自業自得としか言えないのであります。そんなテレサの前に現れたのが、強引な誘いをしてこない、ちょっとシャイなムンガ(ピーター・カズンク)という若者・・・”シュガー・ママ”を求めている男たちとムンガは違って、性的なサービスで金をせびることもなく、他人の目を気にせずに街中で手繋ぎデートをして、テレサはムンガに徐々に心を許していくのです。そして、「やる」ためのレンタルルームではなく、彼はテレサを自宅へと招くのあります。

「愛は永遠」と語る純粋なムンガは、女性を扱い方もよく分かっていない様子・・・テレサは、ここぞとばかりにラブメーキングの手ほどきをかってでます。「オバサンだから」という不安は、自分がリードするという優越感で埋め合わされていようです。あっという間に、テレサはムンガの若いカラダに夢中にあってしまいます。眠っている彼のカラダの匂いを嗅いでみたり、股間の写真を撮影してみたり・・・テレサにとっては自分がイニシアティブを持てるムンガは、理想の相手なのかもしれません。誰が見ても不釣り合いな二人の関係ですが・・・愛に飢える先進国(テレサ)と、金を求める後進国(ムンガ)の利害関係の如く、微妙なバランスで成立してしまうように見えます。

ここからネタバレを含みます。


しかし、現実はそんなに甘くはありません。ムンガはテレサを、彼の妹が住んでいるという家に連れて行きます。妹の赤ん坊は病気で治療代が必要なんだと訴えるムンガに、テレサは大金を手渡すしかありません。また、彼のいとこが教えている小学校に連れて行かれ、ここでも子供たちのためという名目で、残りの現金を手渡す羽目になってしまいます。”シュガー・ママ”として金を貢いでいるのではなく、あくまでも人助けなんだと思い込もうとするテレサですが・・・次第にムンガはテレサに対して冷たい態度を取るようになるのです。そして、そのうち連絡しても、ムンガとは会えなくなってしまいます。妹の家に行ってみても、金をせびられた上に、現地の言葉で罵倒されるような始末・・・「ムンガに騙されている」とガブリエルから忠告されても、テレサはムンガを信じることをやめられません。騙されていたことを認めるのは、信じていた自分を覆さなければならないこと・・・しかし、ムンガと妹と名乗っていた女性と赤ん坊が、仲睦まじく海辺で散歩している姿を見て、テレサは気付かされます。妹というのは実は彼の妻で、赤ん坊は彼らの子供だと。ムンガを罵倒して殴るしか、怒りを発散する手段しかありません。

これで、テレサが「もう現地の男は懲り懲り」となれば、映画は終わってしまうのですが・・・ひとり傷心でビーチを歩くテレサの前に、再び現地の若い男が現れます。逆立ちしてみたりしてアピールする姿に、目を細めてしまうテレサ・・・愛を信じて裏切られた彼女は、もう”愛”という幻想は求めていません。現地の男が彼女に何を求めて近寄って来ているかなんて承知のこと・・・「愛している」とか「美しい」とか”まやかしのような言葉”よりも、肉体的に満たされたい自分の欲望を認めることで、テレサは解放されたのです。「何人の白人女とやったの?」と尋ねる自虐的な行為は、もう騙されないという防御壁・・・”心”が傷つかないように自分を守れば守るほど、本当の「愛」からは離れてしまうという矛盾。それでも、ますます肉欲を求めてしまうのは、どうしようもない”淋しさ”故になのかもしれません。テレサの行動に身につまされる人は、決して少なくないと思います。

ケニアとの経済格差により自国(オーストリア)よりも安く若い男と遊べる・・・ということもありますが、自分(ヨーッロッパ白人)とは違う人種であることで、買春行為の後ろめたさも、性的に相手を支配しようとするエゴも感じなくて済むのです。テレサの誕生日には、女友達が現地の男性ストリッパーをプレゼントに用意しています。ストリッパーが彼女達を見ても反応しないことに苛立ち、裸になって必死に誘惑を試みる女友達・・・いつしか、そのなかに加わっていくテレサは、すでに躊躇する自意識さえも失っていっているのです。遂には、ホテルのバーテンダーを自分の部屋に連れ込むテレサ・・・現地の男に金を渡せば(肉体的には)彼女の思い通りになるという”侮蔑意識”が根底にはあります。テレサの言われたままシャワーを浴びるバーテンダーですが、正直嫌々連れ込まれたという感じ・・・「白人の女性にキスしたいでしょ?」「胸触りたいでしょ?」とテレサに誘導的されても、”シュガー・ママ”をビーチで探すような男とは違って、彼はどこにでもいる普通の純粋なケニア人の男性なのです。

ベットにドーンと仰向けで横たわったまま「足先にキスして!」と命令(!)するテレサに従うバーテンダー・・・「もっと上、もっと上」と指図しながら、テレサは自分でドレスをめくって下半身を露出して股間にキスをさせようとするのですが、彼から拒否されてしまいます。テレサの求めていたのは「する」だけの性的なサービスではなかったはずなのに、いつしか、欲望と行為が、すり替わってしまっていたのです。自己矛盾に直面したテレサはひとり嗚咽して涙を流すしかありません。ただ・・・翌朝になれば、ビーチには彼女のような”シュガー・ママ”を探している若いケニア人男性が、沢山待っているのです。

肉体だけの欲望を求め裏切られても、再び、求めて引きずり込まれてしまう・・・蟻地獄のような”パラダイス”なのかもしれません。ふと、考えてみると・・・テレサの痛々しさを上から目線で見下ろしているつもりでいて、いつしか自分自身とテレサを重ね合わせているボクがいるのです。


「パラダイス:愛」
原題/Paradise : Love
2012年/オーストリア
監督、脚本、製作:ウルリヒ・ザイドル
出演      :マルガレーテ・ティゼル、インゲ・マックス、ピーター・カズンク、ガブリエル・ムワルーア、カルロス・ムクターノ、マリア・ホフシュテッター、メラニー・レンツ

2013年10月25日第26回東京国際映画祭にて上映
2014年2月22日より日本劇場公開



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