2015/06/20

イギリス版「Quuer as Folk/クィア・アズ・フォーク」のラッセル・T・デイヴィスによる最新作!・・・スマホ時代の”LGBT”の恋愛とセックスを赤裸々に描いた三部作~「Cucumber, Banana, Tofu/キューカンバー、バナナ、トーフ(原題)」~


 

「Quuer as Folk/クィア・アズ・フォーク」は、アメリカHBOでのリメイク版が世界的にも知られていますが、オリジナルはわずか2シーズン(2シーズンはスペシャル版のみ)で終了したイギリスのチャンネル4で放映されたテレビドラマ・・・先日、イギリス版とアメリカ版の「Quuer as Folk/クィア・アズ・フォーク」と「Looking/ルッキング」について書いたばかり(めのおかし参照)だったのですが、「Looking/ルッキング」は、シーズン2で打ち切りが決定しまいました。しかし、今年(2015年)1月には、イギリス版「Quuer as Folk/クィア・アズ・フォーク」クリエーターのラッセル・T・デイヴィスが、15年ぶりに”LBGT”のテレビシリーズ三部作を発表していたのです!

ラッセル・T・デイヴィスが脚本も担当した「Cucumber/キューカンバー(原題)」(チャンネル4で放映された各45分のテレビドラマ8話)を”核”として、「キューカンバー」では脇役/端役で登場するキャラクターのサブストーリーを新人脚本家が書いた「Banana/バナナ(原題)」(E4にてネット放映された各23分のミニドラマ8話)、「キューカンバー」と「バナナ」に出演した役者や一般人のインタビューで構成された「Tofu/トーフ(原題)」(4oDにてビデオデマンド配信された各11分のドキュメンタリー8話)という三部作構成となっていて、10代~20代と40代~50代の2つの世代の”LGBT”の恋愛とセックスを描いているのです。

タイトルの由来は、スイスの学者が唱えた男性の勃起度合いを表す”硬さのレベル”・・・一番柔らかいのが「トーフ」で、次が「皮を剥いたバナナ」、その次が「皮付きのバナナ」、そして最も硬いのが「キューカンバー(きゅうり)」ということから。「トーフ」といっても、やわらかい絹豆腐ではなく、欧米で一般的に売られているしっかりとした木綿豆腐のことです。また「キューカンバー」は、日本の「きゅうり」ではなく瓜のようなモノ。トーフ、バナナ、キューカンバーのイメージは、老いと若さの象徴として繰り返しドラマの中で引用されます。切り口は、セックスでの立ち位置の葛藤や、外見/民族/年齢などの格差や差別など、あまり語れることのなかった問題にスポットをあてています。テレビドラマ的なスタイリッシュでテンポの良い演出にこだわるところは、同じイギリス出身の映画監督アンドリュー・ヘイ監督の「Looking/ルッキング」とは対照的なアプローチです。


「Cucumber/キューカンバー(原題)」は、保険のセールスマンとして働くヘンリー(ヴィンセント・フランクリン)を中心にした物語・・・彼には9年ほど同棲しているランス(シリル・ンリ)というアフリカ系イギリス人ボーイフレンドがいるのですが、今では倦怠期といったところ。知り合って以来、アナルセックスをずっと拒絶し続けるヘンリーに対して、ランスは不満を募らせています。また、泳げないランス(黒人は泳ぎが苦手という俗説に基づいて?)はビーチリゾートには行きたがらないのはヘンリーにとっては不満です。会社の食堂で働くバイの背年/フレディ(フレディ・フォックス)や、郵便係でアフリカ系のゲイの少年/ディーン(フィサヨ・アキネード)らの、きゅうりのような”若さ”にも心乱されるヘンリー・・・ランスとのロマンチックなデートから帰宅しても、各自オナニーしてから一緒のベットに寝るという(よくある?)セックスレスではありますが、そこそこ幸せなゲイカップルなのではあります。

頭は禿げまくっている上にブヨブヨのおじさん体型のヘンリーが”46歳”という設定に、複雑な気分にさせられるところもあったりするのですが・・・演じている役者さんの実年齢がそうなのだから、これがアングロサクソンのイギリス人46歳の実像に近いのでしょう。四六時中愚痴っていて、皮肉やイヤミばかり言っているヘンリーのような”ゲイおじさん”というのは、結構(特に欧米では?)リアルにいるタイプ・・・しかし、妙に茶目っ気があるところもあったりして人物設定としては絶妙なのです。クリエーターであるラッセル・T・デイヴィス自身(ボクと同い年の52歳)が、ヘンリーには投影されているのかもしれません。


ゲイが主人公の映画やドラマが珍しくはなくなってきた昨今・・・当然のようにベットシーンも描かれるわけですが、細かなディテールは思いの外”ざっくり”。前戯らしい前戯もなく唐突に挿入(!)されていたり、「タチ」「ウケ」のポジションが漠然と決まっていたり、体をくっつけているだけで体位的には無理そうだったり、現実からかけ離れていることが多っかたりします。セックスでの役割やプレイのバリエーションは多く・・・オナニーの見せ合い”だけ”とか、オーラルセックス”のみ”とか、射精を含まないSMプレイなど、それぞれの嗜好次第でゲイ同士の性行為は成り立ることもあるのです。普段は「タチ」だけど好きな相手に対してだけは「ウケ」になりたいというゲイもいるし、単に肉体的な快感を追求して「タチ」「ウケ」というポジションを選択する場合もあるし、年下だから女性的だから能動的だから「ウケ」というわけではありません。アナルセックスを「するか」「しないか」・・・「する」ならば「タチ」か「ウケ」かというポジションをめぐり、ゲイセックスの深層心理にはいろいろとあるのです。

ロマンティックなディナーをしている時に、ランスは不満を抱えながらもヘンリーにプロポーズします。しかし、ヘンリーは「結婚を考えたこともない。今のままで十分」と、あっさり断ってしまうのです。近年、同性婚が法律的に認められる国が増えていますが、人生のパートナーがいるからといって、すべてのゲイが同性婚したいわけではないのです。結婚について温度差があるゲイカップルというのは、実際には多かったりするのかもしれません。アナルセックスを拒否し続けられた上にプロポーズまで断られたランスは、3Pプレイを提案して堪る場所を探してた若い男を二人の家に連れ込みます。ヘンリーは激しく拒絶・・・それでも「アナルセックスしたい!」と、ランスは連れ込んだ男と寝室に籠ってしまうのです。


ここからが、如何にもドラマ的な展開なのですが・・・ヘンリーはキレまくって、道路にいた警察官に知らない男が家に侵入したと通報。ランスと若い男は手錠をかけられて警察官に連行されてしまいます。実は大騒ぎの最中、ヘンリーのインド系部下が自殺するという事態が起こっていたのですが、留守電のメッセージを聞くことをしなかったヘンリーは何も知りません。自殺者の妻の偽証により、ヘンリーは人種差別の濡れ衣を着せられ、職を失ってしまいます。二人で暮らしてきた一軒家を出ることをヘンリーは決意し、フレディやディーンの住んでいる不法(?)シェアハウスに移り住むことになるのです。(ここまでがエピソード1)

今(制作された2015年現在)という時代性を強く意識していて・・・ショートメッセージやSNSなどの今っぽいネットツールが満載。職を失ったヘンリーは甥っ子の同級生の男子同士(ノンケ)がボーイズラブの真似事をしてリップシンキングするという動画配信のプロデュースをして稼せごうとするし、イケてるウェイターはSNSでセックス趣味からヌード画像まで公開しているし、出会いは所謂”出会い系”SNSでインスタントだし、ショートメッセージのやりとり”だけ”で思惑がすれ違い人間関係が悪化していくなど・・・ネット社会だから起こりえることがエピソードには盛り込まれています。

本作では、恋人関係が破綻していくヘンリーとランスの物語を軸に、フレディやディーンらの若い世代のゲイのセックスライフを描いていくのですが・・・ラッセル・T・デイヴィスは(「クィア・アズ・フォーク」でもそうでしたが)若い世代(10代?)のゲイに、並々ならぬ関心があるようでLGBTのティーンの物語をいくつも織り込んでいきます。ただ、ヘンリーの世代にとって、フレディ、ディーン、甥っ子らの、美しい肉体や旺盛な性欲は「若さの象徴」としての”羨望”や”妄想”の対象ではあっても・・・人生のパートナーとなる対象ではありません。”若さ”に振り回されるのではなく、逆に”若さ”を利用するゲイおじさんの「したたかさ」さえも垣間見せているのです。

ヘンリーの世代に近いボクは、二人の関係がギクシャクして終焉を迎えていく”サマ”に、身につまされるようなリアリティを感じてしまいます。ヘンリーとの共同の銀行口座から全額着服して知らん顔してるほど、心が離れてしまったランスとは対照的に、ヘンリーは徐々に自分を見失い始め、何とかランスとやり直したいと願うようになっているのですが、ランスは”自称ストレート”のダニエル(ジェームス・マレー)に魅了されてしまっていて、過去を振り返ろうとはしません。実はランスも自分自身を見失い始めていて・・・それが、その後の想像だにしない悲劇的な展開となっていきます。

ここから「Cucumber/キューカンバー」のネタバレを含みます。


ヒットすれば「セカンドシーズン」「サードシーズン」と続くということが前提の海外ドラマですが・・・「Cucumber/キューカンバー」は各43分の8つのエピソードで、とりあえずは”完結”となるようで(スペシャル版が制作されることはあるかもしれませんが)、最終話(エピソード8)では後日談として数年後のヘンリーの姿が描かれています。8つのエピソードの中で”キモ”となるのは、ランスを主人公とした「エピソード6」・・・他のエピソードとは全く違う構造で語られるのは、ランスが生まれてから亡くなるまでの一生の物語なのです。

まず、冒頭に「ランス・エドワード・サリバン 1966-2015」とテロップが出て、彼が亡くなることが明らかにされます。これまでのエピソードの流れとしては、ヘンリーと別れたランスが、同僚で自称ストレートのダニエルとのデートの約束をして、いよいよ新しい人生を歩み始めようというところ。ヘンリーとの共同預金全額をランスが着服したことで、ヘンリーとの関係はますます悪化・・・復縁を求めてきたヘンリーを冷たい態度であしらってしまうのです。この状況下で、何故ランスが亡くなってしまうのか全く推測できません。

このエピソードは、ランスが生まれた瞬間からスタートします。母親により「ランス」と名付けられたように、母親に愛されて育つのですが、彼が幼いときに母親は亡くなってしまうのです。厳しい父親はランスを男らしい男の子にしようと男同士の性教育にも励むのですが、ランスはこっそり「プレイガール誌」(男性ヌードを掲載した最初の女性誌)を見ている、ちょっとフェミニンな少年になっていきます。誰にも見つからないように見終わったプレイガール誌を池に沈めようとするランスは、自分のセクシャリティに対して罪悪感を持ってしまった少年でもあるのです。こういう葛藤は、ゲイであることに少年期に気付いたゲイならば、誰もが経験したこと・・・心が痛みます。

大学生になり寮生活を始める頃になると、同級生のガールフレンドができるのですが、セックスに積極的な彼女にドン引きしてしまうランス・・・徐々に自習を理由にデートを断るようになり、結局、彼女とは別れてしまいます。その後ランスは男性と付き合い始めるようになるのですが、純粋な気持ちとは裏腹に、次から次に新しい男と関係を築いていくのです。父親や妹にカミングアウトした後、クリスマスには実家へ帰るようになるのですが・・・ボーイフレンドを連れてくるランスを父親は家には入れようとはしません。そのうち、ランスもボーイフレンドと一緒に実家に足を踏み入れること諦め、玄関先で毎年新しいボーイフレンドを紹介することになるのです。

ある年のクリスマス、ランスは一人で実家に現れます。何故なら、去年まで一緒にいたボーイフレンドはAIDSで亡くなってしまったから・・・この時になって、父親は初めてランスを実家に招き入れようとします。同性愛者であることを告白された父親にとって息子を理解して受け入れるためには、長い長い年月が必要だったということなのかもしれません。親にカミングアウトした多くのゲイが経験したことであろう家族との”蟠り(わだかまり)”と”和解”の過程を、テンポの良くサクっとみせる演出は見事です。

そして月日が経ち、ランスはヘンリーと出会い同棲を始めます。いつしか時間軸は、二人が泥沼の別れ話という”現在”に追いつくのです。復縁を迫るヘンリーに、あくまでも冷たい態度であしらうのは、ある意味”優しさ”なのか、ダニエルという新しい男が現れたから生まれた気持ちの余裕なのか、それとも、ある種の”復讐心”なのか・・・いずれにしても、ヘンリーとの元の鞘に戻るのはアリエナイという結論は出てしまっているのかもしれません。そしてランスは、ますますダニエルにのめり込んでいくことになるのです。


ある晩、ランスは念願かなってダニエルとゲイバーでデートにこぎつけます。ノンケぶった態度はゲイバーでの受けも良く、たちまちダニエルは人気者です。若いゲイのグループと楽しげにつるむダニエルを横目で見ながら、ただ一人でポツンと待っているしかないランス・・・そこに、オバサンが声をかけてきます。「ハンサムな男、でも・・・それだけの価値があるの?」と。若くてハンサムな男に魅了されてしまう・・・それは性欲を満足させるというよりも、自分の存在の意味のための悪あがきでしかないのかもしれません。ランスはアドバイスには耳を貸さず「彼にはそれだけの価値がある!」と自分に言い聞かせるように答えます。するとオバサンの姿は夜の闇に消えてしまうのです。このオバサンの亡霊って・・・ランスに残されていた最後の”良識”の声だったでしょうか?

ダニエルの自宅へ二人で戻ってきたランスとダニエル・・・しかし、自分自身の同性愛を受け入れてないダニエルは、自分から誘惑しておきながら、犯されたとキレまくり「ゲイなんて最低のブタだ!」と、ランスを罵倒し始めます。ゲイを恨み嫌う”自称ストレート”が、潜在的に同性愛嗜好を隠しているということはありがちなこと・・・逆恨みのようなゲイ男性への暴行事件は、社会的な要因だけでなく宗教的にも同性愛否定する欧米ではありがちだったりします。自己嫌悪に陥ったダニエルを優しくなだめようとするランスに拒否反応を示して、ダニエルはゴルフクラブでランスを頭部を思いっきり殴るのです。


頭部から大量の血を流しながら、ランスの脳裏には、それまで人生がフラッシュバックで駆け巡ります。輝く光の中、ベットの横で微笑むヘンリーの顔・・・最も大切な人を失ったことを気付くのは、いつも手遅れになってからなのです。後悔に涙を溢れ出しながらランスは意識を失い・・・画面は真っ黒になって、このエピソードは終わります。あまりにも衝撃的な展開とエンディングに、ボクはしばらく放心状態になってしまったほどです。このエピソード6の後は、後日談的にヘンリーの姿が描かれて、エンディングを迎えます。アメリカのテレビドラマだと、ランスが亡くなるまでがシーズン1で、その後の物語をシーズン2で描くという風に引っ張っていくところなのでしょうが・・・。


「Cucumber/キューカンバー」は、革新的なテレビドラマとしてラッセル・T・デイヴィスの手腕が再び発揮されていることは言うまでもありませんが・・・新鋭の脚本家たちを採用した「Banana/バナナ(原題)」は、1エピソードがたった23分とは思えないほど、内容が凝縮され、新鮮なテーマに挑んだ意欲的な一話完結のドラマなのであります。

「Cucumber/キューカンバー」の中では、脇役、または、端役/エキストラ(?)だったJGBTの人物が主人公となる8つのエピソーだから成り立っており、本国イギリスでは「キューカンバー/Cucumber」の放映直後にネット配信されたようです。主人公なる人物の年齢も性別もセクシャリティもバラバラでありながら、全体的には統一感が感じられるのは、各エピソードの制作スタッフや出演キャストが「Quuer as Folk/クィア・アズ・フォーク」に大きく影響を受けた人たちだからかもしれません。

8つのエピソードの中で、最もボクの印象に残ったのは、”イケメン”に運命の出会いを感じた”イケてないゲイ”の妄想とシビア過ぎる現実を描いた「エピソード7」・・・あまりにも冷酷なゲイのヒエラルキーの描き方には、思わず胸が苦しくなってしまいます。エイデン(ディノ・フェッチャー)はヘンリーらがたむろするレストランで働く24歳のウェイター・・・ゲイだけでなく誰からもオールマイティーにモテ筋のチャーミングなハンサムなエイデンは、出会い系のSNSでは誰もが知る有名人です。


その夜もゲイバーに入店するや否や、エイデンはセクシーな髭面のベン(ジャマール・アンドレアス)と早々にいい感じになるのですが、フランク(アレックス・フロスト)も連れて帰って3Pをしようと提案されます。ベン曰く「フランクのような”イケてないゲイ”にとって、自分たちのような”イケメン”とヤレるなんてラッキーなことだから、必死にサービスしてくれるはずだ」というのです。なんとも残酷な見解ではありますが、イケメンとデキる機会が少ないフランクにとっては、二人のイケメンと同時に相手できるなんて「ラッキー!」なのかもしれません・・・たとえ侮辱的な扱いを受けていたとしても!

英語では「out of my league/アウト・オブ・マイ・リーグ」という言い方をするのですが・・・これはヒエラルキーでは自分より上の存在のことを指します。ゲイでいうヒエラルキーは社会的、または、経済的な地位の格差よりも、あくまでも「イケるか」「イケてないか」という”見た目”によって決まってしまうものです。明らかに同じリーグに属していない二人がデキている場合、イケてない方が「社会的な地位を利用して」とか、「金にモノをいわせて」とか、ヒエラルキーの低さを補う”何か”がない限り、第三者にはヒエラルキーバランスが納得できないところがあったりします。男女であれば、社会的に成功しているブサイクな男が、美女を連れ添っているということは、非常によくあることはあるのですが・・・。

当初はフランクの存在を怪訝に感じて、自分の体には触らせないようにしていたエイデンでしたが、3Pの2回戦目(!?)となってくると、いつしかフランクとも抱擁し合うようになっていくのです。翌朝、ひとりでコッソリとベンの家を出ようとしたエイデンを追いかけてきたのはフランク・・・すぐ嘘とバレるような言い訳をしてまで、エイデンを帰らせまいとします。「見た目だけで判断しないで!二人の出会いは運命だ」と必死にアピールするフランクに、仕方なくエイデンはカフェに行くことを同意します。「見た目じゃない!」と訴えるフランク自身が、実は「見た目」でエイデンを求めているという「矛盾」・・・ロマンチックで純粋な恋心の”正体”なんて、こんなものなのかもしれません。

コーヒーを付き合ったものの、道端で知り合いとすれ違う時には、フランクを横道に突き飛ばして見知らぬフリをするエイデン・・・さすがのフランクも、これには激怒します。さすがにエイデンも罪悪感を感じ、もう一軒フランクと付き合うことにするのです。今日知り合った二人の関係は「DAY 1」・・・「次から次へと新しい出会いをして、いつまで”DAY 1”を繰り返し続けるのか?」と、フランクはエイデンに問いかけます。相変わらずエイデンのスマホには、出会い系SNSから頻繁にメッセージが届くのですが、フランクの言葉に何かを気付いたかのように、断りのメッセージを送り、今目の前にいるフランクと向き合おうとするのです。遂に、イケメンのモテ男が改心したのでしょうか?

ここから「エピソード7」のネタバレが含まれます。


ここから、エイデンとフランクの恋愛の日々が描かれていくのですが・・・二人のラブラブっぷりには、何故か目の覆いたくなるような不快感を感じてしまうのです。見た目の不釣り合いなカップル同士だとしても、激しく愛し合っても勝手だとは分かってはいるのですが、なんとも釈然としません。エイデンを演じるディノ・フェッチャーは、どんな角度からでも、どんな表情でも絵になるハンサムな一方、フランクを演じるアレックス・フロストは薄毛で出っ歯で話し方も表情もどこかイケてないのです。この二人のキャスティングは気の毒なくらい適役で・・・身につまされます。

ただ、このラブラブっぷりは全てフランクの妄想だったことが、あっさりと明かされて・・・フランクには残酷すぎる現実が、突きつけられることになるのです。目の前にいるフランクではなく、次に出会う新しい男にエイデンの興味は、すでに向いています。次から次に新しい出会いのチャンスがあるエイデンにとって、どんな相手であっても、新しい誰かとの「DAY 1」の燃え上がる感情には敵わないということなのかもしれません。見た目”だけ”を追いかけて、次から次に”イケメン”に誘われるゲイのヒエラルキーの頂点にいるエイデンだからこそ、成り立つ論理と言えるでしょう。「見た目じゃなくて中身だ!」というのは正論ではありますが・・・外見的に惹かれてもいない相手の内面的な魅力を見出すことって、そもそもデキっこないのです。


エイデンはフランクにハッキリと伝えます・・・「君はブサイク過ぎる」と。あまりにもストレートな言葉ですが、ここまで言われてしまっては、さすがのフランクも諦めるしかありません。罪悪感から生み出されてしまう中途半端な優しさは逆に相手を深く傷つけることになり、残酷なほどの誠実さこそ相手を救うことになるのです。

エイデンが立ち去った直後、フランクは別な男(イケメンじゃない)に声をかけられるのですが「タイプじゃない」と、冷たくあしらうところは、なんとも皮肉な話・・・見た目”だけ”で判断しないで欲しいと訴えていたフランクだって、結局、見た目”だけ”で判断していることがアリアリと分かるのですから。そして、フランクに断られた男には、別な誰かがアプローチしてくる・・・まさにゲイのヒエラルキーは「捨てるものあれば、拾うものあり」なのかもしれません。


「Tofu/トーフ(原題)」は「キューカンバー」「バナナ」とは違い、セックスについてのインタビューを集めたドキュメンタリーとなっています。インタビューに答えているのは「キューカンバー」「バナナ」の出演者や、さまざまな職業や年齢の素人さん・・・セクシャリティもLGBTに限定していません。あくまでも「キューカンバー」「バナナ」の補足的な内容ではありますが、セックスの関わる個人的な性癖や習慣におよんでいて、下世話な興味がそそられます。

連続ドラマシリーズ、単発の短編ドラマ、ドキュメンタリーの三部作のメディアミックスという形で、日本で放映されるのは難しいと思います。前作の「Quuer as Folk/クィア・アズ・フォーク」もイギリスのチャンネル4で制作されていたのですが、BBCなどとは違い海外販売のチャンネルを持っていないテレビ局のようなので、本作の大々的な放映は絶望的でしょう。また、製作総指揮のラッセル・T・デイヴィスは・・・もしかすると「日本嫌い」なのではないかという”節”が,何気に作品から感じられるので、日本での放映や日本語字幕付きのDVDリリースということには無関心かもしれません。当然のことながら、本人が特定の人種を毛嫌いしていることを公言することなどはしないので、あくまでも、推測ではありますが・・・。

イギリス版「Quuer as Folk/クィア・アズ・フォーク」で、唯一、登場する日本人というのが、英語をまったく理解できない”ハスラー”というキャラクターで、常に「金、金、金」と”お金”をせびるという、日本人にとっては観ていて不愉快な人物設定となっています。(この設定はアメリカ版にも引き継がれた)英語の単語を何一つ理解しないというのもアリエナイし、人の表情も場の空気も一切読めないのも日本人”らしからぬ”気がするのです。日本人が皇室(王室)を持つ島国同士という親近感をイギリス人に対して感じているほど、イギリス人は日本人に親しみを持っていないかも・・・と感じることは、海外生活で感じたことは何度かあるので、ラッセル・T・デイヴィス”だけ”に限ったことではないのかもしれませんが。(勿論、親日家のイギリス人もいます)イギリス映画を観ていると、明らかに中国語を話している登場人物なのに”日本人”となっていることがあったりしますから、”アジア系”の括りがざっくりしていて、自国の文化や習慣と対比した(どちらかというとネガティブな?)存在として描かれることが多ったりするかもしれません。

「キューカンバー」には「日本」という単語が出てくるシーンが、ひとつだけあるのですが、日本へのネガティブなイメージを垣間見せます。ヘンリーが、ある男と夜中のカフェで語り合うシーンで出てくる台詞なのですが・・・「日本のポルノって最低~。こんな風に言うと人種差別だって言われるけど、日本のポルノが嫌いだからって、なんで人種差別扱いされなきゃいけないんだよ!」とぶっちゃけるのです。これって・・・ラッセル・T・デイヴィス自身の正直な心の声なのでしょうか?まぁ、日本のゲイポルノについてはボクも「どうなの?」と思うところがないわけではありませんが・・・ドラマの流れに不要なのに、わざわざ”日本のポルノ嫌い”を持ち出してくるところは、ちょっと不自然な気がします。ラッセル・T・デイヴィスの脚本からは、アフリカ系やインド系に対しては親和性を感じさせるのですが、日本(アジア系ゲイ?)を毛嫌いしているのが、見え隠れしているような気がするのです。ラッセル・T・デイヴィスのファン方は(自分の好きな海外スター/セレブは”日本好き”だと思い込む人って多いし)異論を唱えるかもしれませんが・・・。

・・・とはいっても、本作の革新的、かつ挑発的なラッセル・T・デイヴィスの制作姿勢は”さすが”であります。アメリカでは「LOGO TV」というLGBT視聴者向けのケーブルチャンネル(「ル・ポールのドラァッグ・レース」放映)で「キューカンバー」と「バナナ」が放映されたようですが・・・今のところ”リメイク”の噂はありません。おそらく、日本市場が眼中にない制作者側から、あえて売り込みはないかもしれませんが・・・最近、「ユートピア/Utopia」「12モンキーズ/12 Monkeys」など、イギリスのテレビシリーズの配信に意欲的な「Hulu」とかで、視聴できるようになればと願うばかりです。


「キューカンバー(原題)」
原題/Cucumber
2015年/イギリス
製作総指揮/脚本 : ラッセル・T・デイヴィス
出演       : ヴィンセント・フランクリン、シリル・ンリ、ジュリー・ヘスモンドハラー、フレディ・フォックス、ジェームス・マレー、フィサヨ・アキネード、コン・オニール
Channel 4にて放映/各45分8エピソード

「バナナ(原題)」
原題/Banana
2015年/イギリス
製作総指揮/脚本 : ラッセル・T・デイヴィス
出演       : フィサヨ・アキネード、レティティア・ライト、ジョージア・ヘンシャウ、ハンナ・ジョン=カーメン、ベサニー・ブラック、ルーク・ニューベリー、クロエ・ハリス、チャーリー・コヴェル、ディノ・フェッチャー、アレックス・フォレスト、リン・ハンター、ニキ・ファグべミ
E4にて放映/各23分8エピソード

「トーフ(原題)」
原題/ Tofu
2015年/イギリス
4oDにてビデオデマンド配信/各11分8エピソード



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