2016/05/13

矢頭保が”カリスマ写真家”になるまで/その2・・・パートナー兼パトロンだったアメリカ人メレディス・ウィザビー(Meredith Weatherby)と写真集三部作「体道」「裸祭り」「OTOKO」


1年ほど前に、このブログに矢頭保がカメラマンとして活躍する以前の日活役者時代のことを書いたことがあるのですが(めのおかし参照)・・・今回は、矢頭保のパートナー兼パトロンとして知られるメレディス・ウィザビー(Meredith Weatherby)というい人物と、矢頭保の写真集三部作「体道」「裸祭り」「OTOKO」について書いてみようと思います。

「テックス・ウィザビー/"Tex" Weatherby」と、呼ばれることもあったメレディス・ウィザビーは、1915年2月25日にテキサス州で生まれたとされています。矢頭保は1925年生まれという説が有力ですから、10歳ほど年上であったということになります。彼が日本に移住した正確な時期は不明ですが・・・太平洋戦争終結後、領事館部員(占領軍の情報局員)として働き始めたようなので、連合軍最高司令官総司令部が設置された1945年10月2日以降の1945年末期から1946年あたりではなかったかと推測されます。ある程度の日本語は習得していたそうで・・・来日当時の年齢は30~31歳ということは、アメリカ本国で日本語を勉強していたと思われますが、学歴や経歴については不明です。

唯一、メレディス・ウィザビーの足跡を辿るヒントとなる記述の残しているのが、ドナルド・リチー(Donald Richie)・・・1947年に進駐軍のタイピストとして来日して、アメリカ軍準機関誌星条旗新聞で映画欄の担当となった人物です。日本の映画関係者や文化人らとの高級を深めて、戦後の日本映画を世界へ紹介し、後に映画批評家として知られるようになります。ちなみに、彼と同じく同性愛者(ドナルド・リチーは結婚歴はあり)で日本文化研究者の第一人者として知られる学者の『ドナルド・キーン(Donald Keene)」とは、まったくの別人です。


ドナルド・リチーとメレディス・ウィザビーが、知り合った経緯は分かりませんが、1948年10月に上野公園で行なわれた文楽の公演を、二人で観劇したという記述がドナルド・リチーのジャーナルにあることから、この頃には既に交友関係があったようです。1949年には、コロンビア大学へ入学のためドナルド・リチーはアメリカに一時帰国することになるのですが、卒業後に再び来日・・・その後も、メレディス・ウィザビーとの交友関係は続きます。

メレディス・ウィザビーは翻訳家として、1947年には世阿弥元清の「善知鳥(Birds if Sorrow: A No Play)」を、後にタトル商会の総支配人となるブルース・ロジャース(Bruce Rogers)と共に出版していることから、日本の伝統芸能への造詣も深く、当時の日本の文壇/文化人と接触があったようです。メレディス・ウィザビーは、三島由紀夫の「潮騒」と「仮面の告白」の翻訳を手掛けて、三島文学を世界に紹介した人物ですが・・・三島由紀夫との出会いは、銀座5丁目にあった「ブランスウィック」であったと言われています。

「ブランスウィック」は、三島由紀夫著の「禁色」にでてくる「ルドン」のモデルとなったとい喫茶店兼バー(昼は喫茶店、夜はバー)・・・美輪明宏(丸山明宏)がボーイとして働いていたことで知られる店(実は皿洗いだったという話もあり)であります。ストレートの客も訪れる高級路線の店だったのですが、美形のボーイを集めていたこともあり・・・いつしか、当時「そどみあ」とか「一見(いっけん)さん」と呼ばれた同性愛者の集まる場所へとなっていきます。二階には高い仕切りで区切られたボックス席があって、ゲイ同士の出会いの場にもなっていたようです。

戦後の日本のゲイバーというのは、とてつもなく値段の高い店が多っかったようで(殆どぼったくり!?)・・・「ブランスウィック」の他には、”青江のママ”(青江忠一)や”吉野のママ”(吉野寿雄)を輩出した、お島さん(島田正雄)が経営していた新橋の女装バー「やなぎ」や、神田の「シルバードラゴン」、上野の「市蝶」、日本橋の「シレー」、新宿の「夜曲」、渋谷の「新大和」など、戦後から数年後には都内に数店舗しか存在しなかったと言われています。これらの店は、一般的な日本人が気軽に入れるような価格設定の店ではなく・・・顧客の多くは、進駐軍などの外国人か羽振りの良い数少ない日本人であったようです。

三島由紀夫とメレディス・ウィザビーは、あくまでも(同性愛)同好の仲間というだけで、それ以上の関係ではなかったと思われます。ただ、デビュー当時から三島由紀夫は海外で認められたいと熱望していたようですから、二人の接点は当初、三島由紀夫にとっての方にアドバンテージがあったのかもしれません。

1952年、日米平和条約が発効されてGHQによる占領が終わり、メレディス・ウィザビーはアメリカに一時期帰国します。その年に三島由紀夫は初渡米するのですが(ボクの母親は同じ時期にアメリカへ留学していて、現地で三島由紀夫に会っている)・・・当時、ハーバード大学院に在籍していたメレディス・ウィザビーは、コロンビア大学に在籍中だったドナルド・リチーに、三島由紀夫の案内役を頼んでいます。メトロポリタン美術館にある聖セバスチャンの絵画を、三島由紀夫は見たがったそうです。

翌年の1953年にメレディス・ウィザビーは再び来日し、版権仲介ビジネスを始めたタトル商会に出版部長として入社・・・三島由紀夫の「潮騒」(1954年にアメリカで出版)と「仮面の告白」(1958年にアメリカで出版)の翻訳を手掛けるのです。現在でも、この2作品のメレディス・ウィザビー訳版は、アメリカで販売されています。「潮騒」と「仮面の告白」が英訳されたことで、三島文学は海外でも高く評価されることになり、三島由紀夫の作品は次々と翻訳されることにあるのですが、その後の三島文学の翻訳者は著名な文学者になっていることを考えると・・・三島由紀夫の”したたかさ”が垣間みれる気がします。

コロンビア大学を卒業したドナルド・リチーは1954年に再来日して、早稲田大学で教鞭をとるかたわら「ジャパンタイムス」紙などで映画評や書評を執筆・・・日本に再来日した理由については、当時(1950年代)は日本の方がアメリカよりも同性愛者への偏見が少なかったことを挙げています。マイノリティーの人権に関しては進んでいるという印象のアメリカですが、それは1960年代末期以降のこと・・・州によっては同性愛者というだけで逮捕されたり、職を失うこともあり、同性愛者に対しての風当たりは、非常に厳しかったのです。

さて・・・前置きが長くなりましたが、矢頭保とメレディス・ウィザビーが出会ったのは1956~57年頃と言われています。この頃、風俗営業の規定が厳しくなり、女給が相手をする店は午後11時までの営業と規制されたため、女給のいないボーイだけの”ウイスキーバー”というのが誕生するのです。美少年/美青年に薄化粧や隈取りをさせたりする店も現れて、次第に”ゲイバー”らしい形になっていきます。普通の飲食店としての営業許可をとることで、税金を安く抑えることもできたということあったようですが・・・1956年には40軒ほどだった”ゲイバー”は、翌年には150軒以上に激増したそうです。矢頭保とメレディス・ウィザビーが出会った新宿のゲイバーは、どちらかというと現在の”ホモバー”(ゲイ同士が出会うことが目的のバー)に近いタイプの店であった思われます。


ふたりが出会った時、メレディス・ウィザビーは41~42歳、矢頭保は31~32歳と、10歳ほどの年齢差しかなかったのですが、二人は父と息子のような関係であったといわれています。矢頭保は友人に母親の話はすることあっても、父親の話をすることはなかったそうで・・・もしかすると、母子家庭のような環境で育ったのかもしれません。写真作品からも明らかなように、矢頭保が好むタイプというのは「イモっぽいの日本男児」・・・細面な紳士的なメレディス・ウィザビーの外見は全く違うタイプのように思えます。おそらく、潜在的には父親を求めていた矢頭保は、経済的にも精神的にも自分を寵愛してくれるメレディス・ウィザビーに、父親のイメージを重ねていたのかもしれません。

1956年に、矢頭保は大阪から上京しているのですが・・・交通事故で両足を骨折してしまいダンサーとして生計を立てていくことを断念することになります。一時期、生活に困窮して日雇いの人夫のような仕事することもあったようで・・・そんな厳しい時期に出会ったのが、メレディス・ウィザビーだったのです。出会って間もなく矢頭保とメレディス・ウィザビーは、現在の六本木7丁目あたり(国立新美術館の前あたり?)にあったウィザビー邸での同棲生活を始めることになります。ウィザビー邸は、奥多摩(秩父、または愛知という説もあり)から移築した大きな古民家で、2階にはドナルド・リチーが”居候”として住んでいたそうです。


1958年から、矢頭保は日活映画の端役として出演し始めます。(この時代の矢頭保については、以前書いた”めのおかしブログ”の記事を参照)二人の出会いは日活入社以前ではあったようですが、日活の仲間が矢頭保とメレディス・ウィザビーとの関係や同棲生活を知っていたかは定かではありません。ウィザビー邸では、同性愛者が集まって”怪しげなパーティー”をしていたという噂もあり・・・その集まりを通じて矢頭保は、三島由紀夫を始め文化人や芸術家らとの面識を広めていったのでしょう。

矢頭保が、写真を撮り始めた時期は分かりませんが・・・メレディス・ウィザビーを通じて、写真の世界に導かれたことは確かです。当時、カメラやフィルムは贅沢品でしたが、それらを矢頭保に買い与えたのはメレディス・ウィザビーであります。さらに、学校で写真を学んだわけでもなく、写真家の弟子にもならなかった矢頭保は、メレディス・ウィザビーの友人からカメラの使い方を学んだといわれており・・・現像や焼き付けをするための設備や費用まで考慮すると、メレディス・ウィザビーの経済的な援助や交友関係なしでは、矢頭保の写真家としてのキャリアは存在しえなかったといえるのかもしれません。

写真が発明された19世紀末の黎明期から、男性ヌード写真は存在します。1950年代になると海外では「ジ・アスレティック・モデルズ・ギルド(The Athletic Models Guild)」のボブ・マイザー(Bob Mizer)、「ウエスタン・フォトグラフィー・ギルド(Western Photography Guild)」のドン・ワイトマン(Don Whitman)、「クリス・スタジオ(Kris Studio)」のチャック・レネスロー(Chuck Reneslow)ラス・ワーナー(Russ Warner)など・・・男性の健康美を讃えるという名目(!?)で、ボディビルダーをモデルにした男性ヌード雑誌が発売されていたのです。当然のことながら、購入者の殆どがゲイであったことはいうまでもありません。


また、1955年にはアメリカ人写真家のジョージ・ロジャース(George Rogers)によるアフリカのヌバ族(ドイツ人の女性カメラマンのレニ・リーフェンシュタールによるヌバ族の写真集が有名ですが、ジョージ・ロジャースの方がずっと先)の写真集「ヴィレッジ・オブ・ヌーバ/Villege of Nuba」が出版され、民族学的な記録であると同時にアート写真としても評価されてます。


当時の一般的な日本人が、海外の男性ヌード雑誌やジョージ・ロジャースの書籍を入手することは難しかったとは思われますが・・・メレディス・ウィザビーが個人的に所蔵していた可能性は十分あり、矢頭保が目にする機会があったとしても不思議ではありません。それらは、矢頭保の”写真家”としての方向性に、大きな影響を与えたのではないでしょうか?

日本では1950年代半ば頃、日本ボディビルセンター(渋谷)、後楽園ホール、神田ジムなどがオープンして”第一次ボディビルブーム”が起こっています。肉体改造を目指した三島由紀夫がジム通いを始めたのは、ボディビルコーチの鈴木智雄氏と出会った後の1955年9月16日であったという記録があるのですが・・・1958年頃に撮影されたといわれる三島由紀夫のポートレイトをジムで撮影していることから、この頃には矢頭保はカメラを手にしていたようです。1960年頃に、三島由紀夫はボディビルダーの友人たちを自宅に招待して、ポージングの撮影会を行なっていたよう逸話もあり、その時のカメラマンは矢頭保だったと推測されます。


1960年頃、メレディス・ウィザビーはタトル商会を辞めて、後に矢頭保の写真集を出版する”ジョン・ウェザーヒル社”(John Weatherhill Inc.)を設立します。表舞台に出てくることはあまりないメレディス・ウィザビーでありますが・・・江戸時代を版本の収集家でもり、それらを素材にコラージュ作品を制作していたようです。展覧会(販売会)を行なうと、ほとんど売り切れたということですから、クリエティブな才能にも恵まれいた人物であったのかもしれません。

外見的には男っぽく、ボソボソとした雰囲気で、寡黙な印象を与えた矢頭保ですが・・・写真のモデルたち(ボディビルダーの青年たち)の勧誘は巧みだったそうです。「イモっぽいの日本男児」を理想のタイプとしていたこともあり、モデルになった若者の殆どは「ストレート」・・・しかし、矢頭保は上手に下着を脱がしてしまうことで有名だったといわれています。1962年の夏頃、矢頭保は日活を退社して、本格的に写真家として活動を始めることになります。ただ、矢頭保の写真集三部作は、出版された順番に撮影されたのではなく、すべてが同時進行であったようです。

最初の写真集「体道~日本のボディビルダーたち」を出版するのは、1966年矢頭保が41歳のとき(日活退社後4年目)・・・日本語版は”美術出版社”と”ジョン・ウェザーヒル社から出版され、初版の価格は980円だったそうです。三島由紀夫が序文、彫刻家の流政之が表題文字を書いており、矢頭保という無名の写真家のデビューを、友人達でバックアップしようとしていた様子が伺えます。”ジョン・ウェザーヒル社”から出版された英語版は、メレディス・ウィザビーのアドバイスで「Young Samurai」となったといわれています。


現在も日本ボディビル連盟の会長を務めている玉利齋(たまりひとし)氏の解説や、各モデルの詳細なプロフィール(氏名、在住地、職業、身長、体重、胸囲、ビルダー歴、趣味など)も掲載しており、日本人ボディビルダーを撮影した初めての写真集という”真面目”な体裁にはなっています。矢頭保の男の”好み”は反映されてはいますが、1950年代の海外の男性ヌード写真雑誌との類似もあり、オーソドックスなボディビルダーのポーズばかりで、芸術性には乏しい印象です。

「体道」が出版された4年前の1962年、三島由紀夫がモデル(撮影は1961年秋から62年春)をつとめた「薔薇刑」(細江英公のによる日本初の男性ヌード写真集)が出版されています。バロック的雰囲気で芸術性に溢れた作風は、三島由紀夫の西洋的な嗜好を表していますが・・・「体道」には、日本刀をもった褌姿の「サムライ」的な三島由紀夫が収められています。ただ、ボディビルダーたちの中で、三島由紀夫は少々浮いている気がします。三島由紀夫いわく・・・自分の立ち位置は「逆柱」的な意味だと序文で説明はしていますが・・・本書の企画/制作に於いて三島由紀夫の関与が見え隠れするのです。


三島由紀夫には、お気に入りの”お抱え”カメラマンがいたようで・・・雑誌などに掲載する”パブリック”用は篠山紀信(「聖セバスチャンの殉教」など)、自分の嗜好をより反映させた”プライベート”用(切腹シーンなど)は矢頭保、と使い分けていたようなフシがあります。矢頭保に撮影させた写真はプリントさせて、自慢げに友人たちに見せていたそうです。三島由紀夫の有名な切腹写真は矢頭保の撮影によるもので、血糊に使用したチョコレートのリアルさに、三島由紀夫は大変満足そうだったといわれています。


矢頭保は、画廊や他の写真家とも親交もなく、写真展を生涯一度も開催することもなかったよう(?)なので、もともと存在するオリジナルプリントが非常に少ないのかもしれません。写真集以外では「アサヒカメラ」「アサヒグラフ」などの雑誌など、主に印刷媒体だったちします。僅かながら発見されているオリジナルプリントは、個人的に焼いて手渡されたモノらしく、サインさえされていません。もしかすると、・・・作品の発表の場として出版/印刷を前提としていたので、矢頭保はネガの現像はしても自らがプリントを焼くことは、それほどしなかったのではないのでしょうか?もしくは・・・矢頭保が理想とした作品の発表の”形”は、額縁に入れられたアート写真ではなく、出版物だったのかもしれません。

1969年(「体道」から3年)に、二冊目の写真集「裸祭り」(再び、出版社はが美術出版社とジョン・ウェザーヒル社、序文は三島由紀夫、日本語表題文字は流政之)を出版・・・日本国内の26の裸祭りを取材して、モデルは祭りに参加している”素人”さん・・・当然のことながら、矢頭保好みの男が大きく扱われていますが、明治大学の長谷川辰夫教授や民俗学者の山路興造氏や萩原竜夫氏の解説を掲載して、ジョージ・ロジャースの「ヴィレッジ・オブ・ヌーバ」を彷彿させる”真面目”な写真集という体裁にはなっており、民俗学の資料としても価値があると思われます。


しかし(ボディビルダーとは違う)ナチュラルに逞しい肉体の日本男児が醸し出す”エロス”を、矢頭保のカメラが追っていたことは明らか・・・”真面目”な体裁は、いかがわしい性風俗的な男性ヌード写真集ではないという「いいわけ」のような気もするのです。

ボディビル雑誌などに掲載される写真、グラビア写真(朝日グラフに掲載された友人の彫刻家・流政之)など・・・矢頭保の商業的な写真家としての活動は、それほど多くはありません。出版元であるジョン・ウェザーヒル社はメレディス・ウィザビーの出版社で、ほぼ自費出版のようなものです。1968年頃、メレディス・ウィザビーは共同経営でニューヨークにウォーカー・ウェザーヒル(Walker Weatherhill)社という主に日本文化を紹介する本(安野光雅の「旅の絵本」をなど)を出版する会社設立していますが、ジョン・ウェザーヒル社はウォーカー・ウェザーヒル社の日本の窓口のような立場であったのかもしれません。


1970年、日米合作の「トラ・トラ・トラ」が公開されます。矢頭保は日本側のスチールカメラマンとして参加しており・・・メレディス・ウィザビーは(ワンシーンではありますが台詞もある)ジョゼフ・グルー駐日米国大使役で出演しています。殆ど写真の残っていないメレディス・ウィザビーの、貴重な姿を「トラ・トラ・トラ」では見ることができるのです。どういう経緯で「トラ・トラ・トラ」に、二人が参加することになったのかは明らかではありませんが・・・日本側の監督して参加していた黒澤明が降板後、矢頭保の日活時代の出演作品のいくつかの監督をしていた舛田利雄が引き継いでいることから、日活時代の縁で矢頭保はスチールカメラマンとして雇われたのかもしれません。


1970年11月25日・・・三島由紀夫は盾の会のメンバーであった森田必勝と共に割腹自殺します。メレディス・ウィザビーやドナルド.リチーは、この頃も三島由紀夫と頻繁に会っていたようなので・・・おそらく、矢頭保も三島由紀夫と亡くなる直前まで顔を合わしていたと思われます。三島由紀夫は自分のいないところで友人同士が繋がるのを嫌って、友人を紹介しない主義だったそうですが、ウィザビー邸は同好者(同性愛者)の社交の場であったこともあり、矢頭保は数少ない三島由紀夫のゲイネットワークをを知る友人であったはずです。三島由紀夫と森田必勝の二人きりのポートレートは、矢頭保によって撮影されており、緊張感を感じさせる篠山紀信撮影の集合写真よりも、二人の表情もリラックスしていた様子の写真であるといわれています。


三島由紀夫の自決事件は矢頭保にとっても、メレディス・ウィザビーにとっても、衝撃的なことだったことでしょう。もしかすると・・・間接的に二人の関係に影響を及ぼしたのかもしれません。1970年~71年頃に、メレディス・ウィザビーが新しい恋人を見つけたために、矢頭保とメレディス・ウィザビーは別れたといわれています。

しかし、矢頭保はハッテン場によく出入りしていたそうですし(有名人だから自ら行くことのできない三島由紀夫は体験談を聞きたがった)・・・モデルの青年に食事をご馳走したり、ブレザーを買ってやったりして、時には肉体関係を結ぶこともあったそうですから、どちらが先に不貞したという話ではありません。ゲイのカップルにはアリガチのことですが・・・矢頭保とメレディス・ウィザビーは肉体関係に於いては「オープン・リレーションシップ」だったのではないでしょうか?

詩人の高橋睦郎によると、矢頭保がウィザビー邸を出たのは、三冊目の写真集「OTOKO」が出版後しばらくしてからだった、と語っているので・・・新しい恋人の発覚後も、矢頭保はウィザビー邸に住み続けていたのかもしれません。このブログでは、二人の同棲解消は1972年以降(「OTOKO」出版後)という説を前提にしたいと思います。

1972年、三冊目の写真集「OTOKO: Photo Studies of the Young Japanese Male」が出版されます。序文は矢頭保自身によって書かれていますが・・・本書は出版された2年前に自決した三島由紀夫に捧げられており、「体道」と同じ時に撮影したと思われる三島由紀夫の写真が入っていたり、聖セバスチャンを連想させる写真があったりと、三島由紀夫の亡霊が見え隠れしているようです。


「OTOKO」は、ホモ・エロティックな男性ヌード写真集であり、日本国内で猥褻と判断されることを危惧したようで、メレディス・ウィザビーがロサンジェルスにPho-Delta Press社という出版社を設立して、自費出版のような形で陽の目を見ることになります。そのため、日本国内では一般的な書籍流通ルートにのることはなく、新宿のゲイショップの店頭などで販売されていたようです。矢頭保自身で新宿のゲイバー(パル)で手売りしていたとい話もあり、定価1500円のところ、お金のない学生には300円で売ることもあったとか・・・。ボクが新宿二丁目に足を踏み入れ始めた1980年頃でも、新宿ルミエールでは「OTOKO」が店頭に普通に並べられていましたが、当時でも既に貴重本扱いだったのか価格は7500円(今の感覚だと2万円ぐらい?)だったと記憶しています。

いくつかの骨董品や美術品が「OTOKO」ではプロップとして使用されていますが、これらは矢頭保個人の所蔵品であったそうです。おそらく、メレディス・ウィザビーの経済的援助を受けながら収集したとは思われますが・・・矢頭保の遺品としては何も残されていなかったということですから、メレディス・ウィザビーとの別離後、少しずつ処分してお金にしていたのかもしれませんし、友人や親族が持っていってしまったのかもしれません。どこかしら退廃的で憂いを感じさせる本書は、カリスマ男色写真家の最後の写真集らしいとボクは思ってしまうのです。

男性ヌード写真は、1950年代初頭から大阪の枚方市内で写真店を経営していた円谷順一(通称/大阪のおっちゃん)によって撮影されており、1952年に戦後間もなく発足した会員制の同性愛サークル「アドニス会」の会員誌として創刊された「アドニス」に時々掲載することもあったようです。しかし「アドニス」は1960年の警察の取り締まりで廃刊・・・同年の1960年に「風俗奇譚」が創刊されて、その後、ゲイ・イラストレーターとして活躍することになる三島剛、大川辰次、船山三四、平野剛らが起用されます。SMやフェチを専門とした性風俗雑誌でしたが、同性愛特集が組まれることがあり、男性ヌード写真やホモ・エロティックなイラストが掲載されることもあったようです。「OTOKO」が出版された1年前の1971年には、ゲイ専門風俗誌「薔薇族」が創刊されています。


この頃から、ホモ・エロティックな男性ヌード写真集が、ゲイショップなどの販売ルートで日本国内でも出版されるようになります。1972年4月30日には「薔薇族」の出版社でもある第二書房より「Stripped Guys : 脱いだ男たち」・・・「K氏」なる人物(おそらく、編集者の仁科勝と円谷順一?)の男性ヌードコレクションで、デッサン用という名目で当初は出版したそう。1973年4月30日には、波賀九郎写真集「梵(ぼん)」(その後、シリーズ化して十数冊出版された)、同年9月30日には栗浜陽三(藤井千秋)写真集「渾遊(こんゆう)<禅の詩>」が出版されており、ゲイ向け写真集の市場が生まれつつあったのです。


「OTOKO」出版後しばらくして・・・矢頭保は六本木のウィザビー邸から出て、高田馬場で一人暮らしを始めます。当時、高田馬場は独身の労働者が多く暮らす街だったこともあり、家賃も比較的安かったそうです。新しい恋人の存在によって「ウィザビー邸を追い出された」もしくは「耐えきれなくなって自らウィザビー邸を出た」のかは分かりませんが・・・一人暮らしを始めた後も、矢頭保はメレディス・ウィザビーからは多少の経済的な援助を受け取っていたといわれています。

矢頭保は「ウィザビーによって自分は受け身にさせられた」と恨み言(?)のように生前語ってたそうで・・・矢頭保が「どんでん」=「男っぽく振る舞っているけどベットの中では女っぽくなってしまう」であったことは、仲間内では知られていたことだといわれています。「自分がこんな風(受け身/どんでん)になったのは彼(メレディス・ウィザビー)のせいなんだから、自分を援助するのは当然なんだ」と、矢頭保は思っていたらしいのです。

矢頭保は、カラー写真を含む4冊目の写真集の企画をしていましたが・・・1973年5月30日、矢頭保は就寝中に48歳で亡くなります。亡くなった前夜には新宿二丁目で飲んでいたそうですし、翌日には友人と三社祭に行く約束をしていたそうなので、本人も予期していなかった突然の死であったようです。発見者は「OTOKO」のモデルのひとりだった青年といわれています。矢頭保本人は、常々肝臓肥大を心配していたそうですが、おそらく心臓肥大も併発していて、直接の死因は”心臓麻痺”であったそうです。7年前に亡くなったボクのニューヨークの親友も似たような亡くなり方であったことを思い出すと・・・なんともやりきれない気持ちになってしまいます。

亡くなくなる少し前、矢頭保は20代後半の青年(発見者と同一人物かは不明)と付き合っていたらしいのですが・・・「自分はセックス中に死ぬ」と語っていたそうです。無理な体勢でのオーラルセックスにハマっていらしく・・・相手の男性を自分の腹の上にまたがらせて、上半身を起こすようにしてペニスを口に含もうとするのが、特に興奮したとのこと。矢頭保は、その体勢が心臓に負担を与えると思い込んでいたらしいのですが、実際には心臓麻痺の発作は寝ている間に起こったらしいので、死とは無関係であったと思われます。

奇しくも、矢頭保が亡くなった直後の1973年5月31日に、第二書房から出版された農上輝樹著「聖液詩集」の口絵に、矢頭保が撮影した男性ヌード写真が掲載されているのですが・・・これらの写真が詩集の口絵を前提に撮影されたのか、矢頭保が撮り溜めていたストックだったのかは分かりません。ただ、前出の「梵」などに掲載されている写真と似通った雰囲気もあり、ゲイ向けの男性ヌードの写真家として”矢頭保”が、いかに先駆者的な存在であったかを表しているような気がします。



矢頭保の葬儀は、ウィザビー邸の隣の法庵寺で友人たちの手で行なわれたそうです。突然のことだったのにも関わらず、多くの友人が参列したそうですが、その時、偶然にもアメリカに帰国中であったメレディス・ウィザビーは不参加・・・その後、矢頭保の遺骨がどこに埋葬されたかも知られていません。


また、矢頭保の死後、友人の誰かが高田馬場のアパートに残されていたネガやプリントを処分したらしいのですが・・・これは、矢頭保自身の希望(遺言)であったといわれています。自分がゲイであった証拠を死後に残しておきたくない・・・という思いは、今のゲイの人でも考えていることかもしれません。矢頭保は「”ゲイ”写真家」として歴史に名を残したくなかったのでしょうか?矢頭保の親族は写真集の再販を一切認めていませんし、僅かに現存するといわれるネガやプリントも行方不明となっていて(一部がサンディエゴと東京に存在すると言われていますが)・・・矢頭保の写真集が、再出版されることは今後も絶対ないと思われます。

1970年代以後、矢頭保が活動していたとしたら・・・風俗誌出身のゲイ写真家やイラストレーターとは格の違う”大御所”としての扱いになっていたことでしょう。もしかすると、ロバート・メイプルソープのような”アーティスト”になっていかもしれません。ゲイポルノ産業の黎明期(1970年代半ば~末期)には、男の裸であれば何でもかんでも売れて笑いが止まらなかったそうですから・・・矢頭保がゲイポルノへ進出していたら、メレディス・ウィザビーの経済的な援助も必要ないほど、ひと財産築いていたかもしれません。

ゲイ市場が確立する以前に、出版部数も限られていた写真集3冊”だけ”を残したことによって「希少価値」や「伝説的逸話」が膨らみ・・・奇しくも(本人が望まなかったかもしれない)”カリスマ男色写真家”として語り継がれることになったのは、少々皮肉ではあります。勿論、日本のゲイ・カルチャーの貴重な足跡としてだけでなく・・・純粋に写真作品としても、民族学的な資料としても、また時代を切り取った記録としても、後世に残すべきではある写真ではあるのですから。

メレディス・ウィザビーは矢頭保と別れた後も、六本木七丁目の古民家に住み続け(ドナルド・リチー氏も居候し続けたらしい)ていましたが、1970年代半ばにアメリカへ帰国します。メレディス・ウィザビーが60歳になった頃なので、リタイヤするタイミングで母国へ戻ったのかもしれません。矢頭保との同棲解消の原因となった新しい恋人が、その後どうなったのかは不明・・・ちなみに、この古民家はその後、裏千家の所有となったそうです。

帰国後、メレディス・ウィザビーは出版業界に関わっていたようですが、表舞台で活躍することもなく、公に矢頭保のことを語ることもなく、1997年7月1日(6月27日の説もあり)カリフォルニア州のラホヤで82年の生涯を終えます。人生の最期を迎えた瞬間・・・メレディス・ウィザビーの脳裏に、かつて日本で愛した矢頭保(本名・高田実男)という男のことが浮かんだことを、ボクは願わずにはいられません。


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